秒針の進む先 10
どーんと空を叩く音が木霊し始めたその頃、私は本日最後の自分のお客さんの仕上げに取り掛かっていた。
ほんの1時間前は浴衣を纏った人の姿もあって艶やかな賑わいを見せていた店内。今は、ひと足早い祭の後のようにまったりした空気に包まれている。
「やっぱり、行けば良かったかな……」
雑誌から目を上げたお客さんが、開放したサンルームの方へ顔を向けぽつと落とす。
基本的に口数の多くない落ち着きのある女性。一貫して興味なさそうな素振りだった為、特に話題として振らずにいた私には意外なひと言だった。
手元から鏡へ目線を移すと「誘われたんですけどね」とゆったり笑い掛けられた。
そうだったんですかと口を開きかけたところ、連続して響き出した音につられて揃って横を向く。続けざまだったそれが止み、あっ、と我に返って顔を戻すも未だ外を向いたままの彼女。徐ろに零されたその言葉に、再び私は詰まってしまう。
「その人じゃなかったんです、私が行きたかったの」
でもちょっと見たかったな。そう言ってくすっと綺麗に笑った彼女を見て、改めて私はサンルームが打ち上げ地点の逆向きで良かったと思った。見えていたら、この人が顔を上げることはなかったかもしれない。
花火大会に行く人、行かない人。鳴り響くこの音の下には、それぞれの今日が広がっている。
「……お。夏希ー後いいからもう上がれー」
そんな風に俯瞰で見ていた束の間の非日常が止んで程なく、私の非日常が店長のひと声で幕を開ける。
時計を見れば閉店時間ジャスト。既に清掃に入っていた私はフロアワイプを手にしたままサンルームへ出て、彼が指さす方を見下ろした。
「帰るで、夏希」
ニィーと口端を上げて言いながら、こちらに向け広げられたビニール袋。終業間際だけあって、覗いた中身にわかりやすく喉が鳴ってしまう。
横からは「等価交換にはならねえな」と鼻で笑う声。差し入れなんか無くてもたまのお迎え時ぐらいさくっと帰してやるのに、とでも言いたいらしい。色々と失礼な気もするが、確かに皆なさぞかし喜ぶだろう。
「ほら、帰った帰った」
両肩を掴まれ店内へ押しやられつつ、首だけで振り返って楽しそうにこちらを眺めている顔を瞳で追いかける。
こんな日でも、やっぱり嬉しくて。だから本当はもう少し、ガードレールから見上げる彼を見つめていたかった。
「もう1個の中身は何だったの?」
「あー、ピタサンドや」
「へー!」
「しゃーけど俺が作ったモンやないねんで」
美味しそうと声にする間もなく言い切られて、おっと? と思う。そもそも、迎えがてら出店か何かで買ってきてくれたものと分かった上で聞いたこと。
チラと隣を覗えば、そんなんオマエ食いたないよな? と言わんばかりの流し目とぶつかり口元が緩みそうになる。
意図を汲み合うような視線の応酬。そのどこかくすぐったい間を、カラカラと鳴るチェーンの音がつなぐ。
「真子のお手製じゃ、更に交換率悪くなってたなぁ」
「何やそれ」
ハハと笑う彼につられ、こちらもふふっと漏らす。和やかに他愛のないやりとりをする私たちは、自転車を引きながらまばらな人波を逆行している。
本日会場となった見慣れた河川敷から徒歩圏内の駅はふたつ。物理的に上手いことバラける位置だが、余韻に浸りつつゆっくり帰りたい人も多いのだろう。
ピークを過ぎたはずの今も、通りを行くのは浴衣グループや団扇を手にした人たち。その一様に満足気な表情を目にするたび、お裾分けを貰ってか自然と笑みが浮かぶ。
――同時に覚えた、去年の自分たちとすれ違っているような不思議な感覚。
「……しゃーけど、おもろかったな」
「ね、楽しかった」
「屋上でスイカ割りとか、何や色々はっちゃけとったなぁ」
「あはは、しかも夜にね」
そうして私と真子は、まるで今さっきの出来事を語るかのように会話する。
向う先は歓声の止んだ川沿いのアパートでふたり、ひっそりと過ごす夜。
無論そこから目を背けてなどいない。その証拠に私たちはいつもよりほんの少し距離を空けた隣を歩いている。
傍目には分からないだろう拳ひとつ分程度。違和感を覚えるはずの隙間は、けれど昨日を皮切りに適切なものとなった。
ぎゅっと抱きしめてもキスはしない。熱情任せに別れを飾り立てようもんなら互いに明日が辛くなる。
傷つけないため、傷つかないため。苦悩を晒そうがぼろぼろ泣こうが、最後の最後で相手にも自分にも無責任になれない。多分それが、ルールを捨て切れなかった真子と私の弱さなんだろう。
「しゃーけど今年はアカンかったで」
「え、アカンて何が?」
「逆ニコちゃん連発しよってんやで? 気合いが足らんっちゅー話や」
「や、それ気合の問題かなぁ」
でも、だからこそ私たちはこんな風に今日の話もする。
正直こうして顔を突き合わせるまでは別れ話を終えた相手と一体どんな風に過ごしたもんか、少しばかり頭を巡らせもした。
今だって本当は、泣き出したい衝動、投げやりな諦観、困らせたくない思いなど、奥底に無数の感情を抱えている私がいる。
けれど去年見た花火も、結論を下された昨日も今日も、離れていく明日でさえも。
全てが地続きで繋がっているこの先に、何の約束もしなかった真子がたったひとつ私に残してくれたもの。思いの外それが今の私に穏やかさを与えてくれていた。
待ってもいいし待たなくてもいい。途中で止めてもいいし、忘れたっていい。結局何だったんだろうって、時折思い出す程度になってもいい。
さよならを告げられた私を縛るものはもう何もない。それは凄く、淋しいことだけど。
“聞いて欲しいことあんねん”
――なら、とりあえず待ってみようかな。
何をどこまで考えてのことかなんてわからない。だけど真子が唯一自分の思いとして口にした言葉。それを私の希望にするもしないも自由。
なら後はタイムリミットまでの一分一秒、前向きでも後ろ向きでもなく、ただ彼の隣に。
「うわ、すごい! めちゃくちゃいい匂い!」
「アホ、誰が手がけた思てんねん」
いつものようにリビングへ続くドアを開けると、部屋いっぱいに充満した香ばしい香りが出迎えてくれた。ビールやピタサンドの誘惑を退けてのんびり徒歩で帰宅した私としては、ある種のカタルシスに近い感慨すら覚えてしまう。
何が肝心てダシやでダシ! と早くも得意満面で語り出している姿にほんの少し笑いながらふんふん耳を傾ける。何でも流しの傍にある琥珀の液体、白醤油とやらが味の要らしい。調味料にこんなに種類があることを、真子と知り合って私は知った。
「まずは、このまま食べればいいの?」
「せや、ほんで次に薬味、最後にわさびとだし汁投下や」
「了解です平子先生。じゃ、いただきまーす」
「おし……って、いや拝みすぎやろ」
ローテーブルの上で湯気を昇らせる丼ぶり。その前で気持ち長く両手を合わせていた私に正面から怪訝なツッコミが入る。
いやありがたいなーと思って。そう言ってえへへと笑って見せれば少し呆れた顔でアホかと笑われた。
けれどその実私は、この静かで温かで、やさしい最後の食卓に、真子の中の何かが無事すっきりしますようにとこっそり祈りを込めていた。
無意識にも自分を騙し騙し進む毎日は、やっぱりしんどかったって私自身箱を開けてみて痛感したから。
――彼は、そんな私をどんな気持ちで眺めてたんだろう。
「ありがとう、真子」
「んあ?」
「おいしい。ほんと、おいしい」
「……」
当たり前じゃボケ。そんな返しの予想に反し、真子は何か言いたげな真顔でじっとこちらを見つめてきた。しまった、何か変に改まった感じになっちゃったかな。
思わぬテンポの悪さに面食らいつつ様子を覗えば、す、と視線を下げた彼が「オマエはいっつもそれやんな」と薄く笑う。
語彙の引き出しが足りないってことだろうか。勝手な解釈で反省しかけたところ、その口から思ってもみない台詞が飛び出した。
「ほんで、俺は『スマン』ばっかしや」
「え、そんなこと――」
「いや、口に出さんかったん含めたらどえらい回数なってる思うわ」
……唐突に、それも今になって何を言い出すんだ、この人は。
まるで、意識の中に絶えず申し訳ない思いを置いていたとでもいうような口ぶり。私との関係において、彼の事情はそんなに後ろめたいものだったのだろうか。
こんな形で吐露された心情を一体どう受け止めたらいい。困惑に口を噤むしかない私をよそに、どことなく自嘲めいた苦笑を漏らしながら真子が続ける。
「正直ウンザリやってん、そんなん思わなアカン自分にな」
「真子……」
「ほんま何でやろなぁ、せやっても見事に離れられんかったわ」
「……っ」
慌てて自分の丼ぶりに「最後に」と言われた全部を一緒くたに放り込み口に運んだ。鼻の奥がツンとする刺激に顔をしかめれば、モックモック思い出すなーと正面で楽しそうに笑う人の愛おしげな眼差しに気づき、目の前がみるみる霞み出す。ほんとそういうの、やめてほしい。
「……なに、泣かせたいお年頃?」
「昼間オマエ絡みでうっかり泣かされてもうたもんでな、そのお返しや」
何だそれ、だいぶひどいな。
だけどそんな衝撃の事実をニヤリと不敵に笑って言いのける真子の強さが、何だか悲しくて。
要らんことやて分かっとるけど嘘やないねんで夏希、と念を押すように優しく頭をポンポンされるたび、私の瞳からはころんころん雫が落ちてしまうのだった。
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