秒針の進む先 7
ふと視界の片隅でゆるくはためくカーテンに目を留めると、いつの間にか夜が来ていた。日中の燦々とした日差しは健在だが、今年も確実に夏は終わろうとしている。当たり前のように。
「ただ、言うてもいつんなるか分かれへん話や。しゃーからもう、オマエとはおられへん」
無反応な私の様子を窺うように、隣の真子がこちらを向いた気配がする。聞いてる、という意志表示に前を向いたまま黙ってひとつ頷く。
沈んだ心に変わりはなかったが、何だか私は変に落ち着いていた。こうしている今も真子を失い続けている。自覚しつつ、覆えらない決定打に軽い安堵すら覚えていた。
正直なところ、それだけ昨日がきつかった。
幸い仕事だけはいつも通りこなせたので、正確には昨晩と言うべきかもしれない。腹を括るにはあまりに短く、拒絶の感情と闘うには長すぎる夜。一向に折り合わない心と思考。もはや、望む明日をも失くした心地で無情に過ぎて行く時間を見つめるだけだった。
“色々わかんないけど、わかってる”
そんな、居た堪れない淵にあって。それでも行き着く答えはひとつであることに私は薄々気付いていた。気付いていたからこそ苦しかった。
『いつから』、その問いに何て答えたらいいかは分からなかったけれど。
例えるならそれは、あのお歳暮の箱のようなものだ。他人には何の変哲もないただの箱。だけど私にはそれを開けないことには進めない先があった。それを開ける為に越えねばならないことがあった。
私は開けた人。そして多分、真子はこれから開ける人。暗黙のルールの正体、やはりそれは終わっていない『何か』だった。
だからこそ本当は、出来れば泣きたくなかった。そんなザマを見せては真子を不安にさせる。でもやっぱり、いざその瞬間になったらもうどうしようもなかった。どうしようもなさすぎて笑うしかなかった。
――なのに、そういう時に限って優しくないのだ、この兄妹は。
「はー……ったく、こんなん言いながら行かんでもすんだらてどっかで思うてんねんで? ほんっましょーもないわ俺」
「……言うかなぁ、そういうこと」
「他に女が出来たとか、嘘でも言うた方がよかったか?」
「……聞くかなぁ、それも。意地悪」
信念を語るのはたやすい。体よくうやむやに幕を引くことも、きっと。
けれどバッサリ切り捨てるような優しさを差し挟んではくれない代わりに相手への一貫した姿勢は崩さない。だから大事なものがよく見える。私が好きなのは、そういう平子真子という人なのだ。困ったことに。
窓から吹き込んできた夜風に乗って、そっちのそれーと遠くから張り上げるような声が届く。花火大会前夜。関係者の仕込みかもしれない。
去年と違いすぎる今が悲しくて、胸を突き上げる気持ちが助長される。
「しゃーないやろ? 俺オマエに嘘つきたないねんもん」
「い、じ悪いなぁ、もう……」
ぶわ、と再び視界が曇る。何とか堪えようと片手で顔を覆った途端、ぐん、と体が右に持ってかれた。視界を埋める金。ああ、今日初めてくっついた。思うが早いか耳元に湿度を帯びた低い囁きが落ちる。
「……今頃知ったんか。なっちゃん」
また真似された。気付いた私の気配を感じ取ってか、ふ、とひとつ笑いを漏らした真子は、まるで自分自身にお手上げだ、という口ぶりで言う。
「『俺んことなんか忘れてとっとと誰かと幸せなり』とか、そんーなベッタベタな台詞、言える思うか?」
「……確かに似合わない、けど」
「アホか、むっちゃ似合うっちゅーねん。しゃーけど似合う似合わんやない、無理や。せやかて俺ちゃんと好きやってんやんか、オマエんこと」
「……それ言うなら、私だって『私なら大丈夫だから』とか、かっこよく強がったりなんか出来ないよ」
「アホ、そんなん見え見えすぎてかえって不安なるわ」
こんな時でも私たちは、少しもスマートになれない。絵になる格好いい態度も取れなければ言葉も交わせない。いつだってこうして、ただあるがまま向き合っていた。そんな風に肩肘張ることなく真子と過ごした時間が、でも文句なく幸せだった。
――だからこそ、全て本当なんだと思い知らされる。
「いつ出てくの?」
「明後日や」
「……急だね、ほんと」
「俺かてびっくりしとるわ」
そう言うと真子は私を抱き込んだまま肩口に顔を埋め、長々と溜め息を吐いた。仄かに温まる左肩。すぐそこでつやつやと光る金色が、すり、と押し付けられ、内側からくぐもった声がぼんやりと告げてくる。
「まさか一年で出てくことなるとはなぁ……しゃーけど」
予想もしてなかった。それも本当。これからケリをつけることがある。それも本当。終わったら聞いて欲しいことがある。いつになるか分からない。嘘をつきたくないのも、ちゃんと好きだったのも本当。
待っててくれとも、忘れてくれとも言わない。戻る約束も何もない。
「……おもろかったで。一世紀ぶんぐらい」
ただ、もう私とはいられない。それが全て。
「しよっか、シャンプー」
聞くべき話を終え、当初の約束を果たそうと切り出せば、真子はえらく申し訳なさそうな顔で「ええんか」と聞いてきた。いいも何も、今さら断る理由がどこにあるというのか。思わず苦笑を漏らした私は、そんな彼にドーゾーと腕を向け洗面所へ促した。先日して貰ったように。
そうしていつも通り顔にタオルを掛けシャンプーに取り掛かったものの、それでもなお真子の口数は少ない。というより、ほぼ無言。
「気持ち悪いところはありますかー」
「……せやなぁ、ツボ入りよった時の引き笑――」
「それでは流しまーす」
「オマっ、えらい力技使いよったなー」
悲嘆に暮れようが何をしようが、明日も明後日も変わらずやって来る。そんなことは昨日今日と嫌気が差すほど思い知った。
違う展開を期待してしまうような不確かさすら無くなった今、真子にしんみりされていてはかなわない。あと少し――少ししかないなら、尚更。
「……ちょお待て夏希、誰やその子」
「え、キャサリン」
「なっ、刈り上げてもうたんか!?」
お約束的な振りが功を奏したようで、作業部屋の椅子に座る頃には飄々とした平時の顔を取り戻していた真子。先ほどは目に入らなかったのか、仰天する彼に鏡越しに指をさされたのは、私の手によって丸刈り近くまで刈り上げられたプラチナブロンドのキャサリン。
「うーわ、完全モード系や……」
「でもちょっとかわいくない? ブロンドモンチッチ」
「しゃーけど、オマエこれ高い子や言うてたやないかい」
クールビューティーな顔立ちから、海外ドラマを思わせるゴージャス&ラグジュアリーな設定がついた真子お気に入りの彼女。毛量・毛質ともに良いそれは、本来アップなどのセット練習に使うウィッグ。当然ながら持ちも良く、値段も相応。
だからこそ意味がある。
とにかくとびっきり良い仕事をする。疲れた夜の終わりに思い立った私は早朝から彼女と向き合った。切り揃えた毛先から少しずつ、おかっぱが成立する高さまでひたすら真っ直ぐ。ベリーショートから全頭刈り上げまでの間、角刈りをも通ったと知ったら真子はさぞかしショックだろう。
「だって、他に何もない」
言外に込めた意を汲み取ったのか、ドライヤーを手にした私を真子が神妙そうに見つめてくる。水分で艶とトーンが抑えられた彼の髪は、今日も顔に向かってほんの少しカーブを作るだけでうねりひとつない。
そのすっとした美しい曲線を目で辿り、面倒な思考など捨て去って感情のままに言葉を発せたなら、もっと事は単純なのかもしれないとも思う。
“俺も、ケリついたら聞いて欲しいことあんねん”
だけどあんな風に真似された私には、何も言えなければ聞けもしない。気付きたくもない不穏な気配に、その日が来ない予感が孕んでいても。
「ほな、気持ち短めに頼むわ」
唯一出来る確かなこと。形には残せないそれが、私からの餞別。
- 163 -
[*前] | [次#]
しおり
ページ:
章:
Main | Long | Menu