秒針の進む先 5
――例えば、どんな言葉なら今が違ってたのか。
考えたところでどうにもならないし、何を言おうと結果は同じだったかもしれない。それでもふと思い返しては心を引っ張られる。そういう出来事というのは、いつまでたっても答えが出ないばかりか、時間の経過と共にもっと分からなくなったりする。
大体においてその殆どは予想外の事態や場面。何かしら気配を感じていたとしても、直面したその時の選択肢は突きつけられた現実を受け入れるのほぼ一択。まず、どうしようもない。
それでも、せめてこれを言えたら良かったんじゃないか。そんな言葉を不毛に探し続ける。感情が風化し、感傷に沈まなくなっても、何かの弾みでぽんと浮かんでは繰り返す。そういう場面を意図的にを残して行くのは、やっぱりずるいと思う。
例えそうするしか出来なかったとしても、ずるいと思う。
盆明け、恒例の忙しさに見事に私は救われていた。連日ぱんぱんに詰まった予約をこなす中、お客さんから刺激を貰ったり、皆なでお疲れジョッキを掲げたり。コンテストの準備がない分、例年以上にスタッフ一丸で営業に打ち込めている気がする。
活気に満ちた一日の終わりに入浴しては、ほぼ即寝。心身ともに空白の無い毎日。自分の舵取りすらままならない勢いで渦巻いていた色々は、思考の引き出し奥に上手いこと収まってくれていた。
だけどそれも結局、急降下手前の徐行みたいなものだったらしい。
「そういえば引っ越すそうですね、リサさん」
「……え?」
ピークとも言える一日を終えて帰宅した土曜の夜。初めに私を一歩確信へと近付けてくれたのは、何の因果かやっぱり松田くんだった。自作PCに入れるソフトについての電話で、殆どまるっきり、ついでのように。
「平子さんから聞いてないですか? 引っ越すらしいですよ、空座町に」
リサちゃんが?
ひよ里さんたちとのシェア、やめちゃうんですかね。いつも通り気のない松田くんの声が、ただの音と化して頭の外側を通過する。代わりにざわざわとどよめき出す胸。引っ越す? ――空座町?
「……あの、何か最近よくぼーっとしてますけど、店、大変なんですか?」
「ん? あーごめんごめん! ちょっと大入り続きなもんで」
嬉しい悲鳴ってやつですね、という彼に「へへへ」なんて笑って返しつつも脳内はひたすらめまぐるしい。
真子に行くなと言われた空座町にリサちゃんが引っ越す。ルームシェアをやめて? そんなことってあるんだろうか。だって彼等は、私の認識する彼等は8人で――
だめだ。
そっちへ行ってはだめだ。近付いてはだめだ。座りながらに竦んだ足をぐっと掴み、逆巻き出した不安にガシャンとシャッターを下ろす。
たかだか電車で30分の土地への引っ越し。松田くんのような「へー」程度の感想が正しい。ただ私が、あの時の感覚に囚われているだけだ。
言い聞かせたところで過去からも今からも逃れられはしない。分かっていながら、でも私は逃げたかった。知りたくなかった。知りたくなかったのに。
「お先に失礼します、店長」
「おーお疲れ。そういや平子くん、Holy辞めるんだってな」
――ほんと要らなかったな、この連絡網。
ぐらぐらと世界が揺れる感覚に陥る。刻々と時間が進むにつれ、抗いようのない確かさが増して行く。
話せない事情、空座町、引っ越し、バイト。ひとつひとつが繋がって線になって行く。そして多分、その線の先で自分は交わらない。
こんなことなら、安易に髪を切る約束なんかするんじゃなかった。だって、あと二日しかない。
「あー、みたいです」
「ふっ、相変わらず自由だな、お前ら」
すぐ先の未来を示された思いでひしぐ胸を潜め、笑って会釈をして店を出る。背後でドアが閉まった途端、すっと表情筋が下がったのが分かった。カタンと愛車のスタンドを蹴りながら、これが『わかれの気配』というものなんだろうか、と思う。
好きだと言われて、私もと返して。だけど、それだけで一緒にいられるわけじゃない。別れなのか、分かれなのか。それすらわからない結末があること、どんな思いで受け止めなきゃならないのかも知っている。
ある日突然じゃないだけマシ? 自分自身に問い掛けてみるもそんなことはない。全然、ない。
もう一人とは会えるだろうか。会ってくれるだろうか。去年の今頃より幾分か涼しい夜風が吹く中、薄っすら膜が張りかけた瞳にぐっと力を入れる。じわりと満ちてくる空虚な寂寥感を踏み潰すように、私は前へ前へとペダルを漕ぎ続けた。
「……何でメール返さんねん」
「えっ……あ、ほんとだ。ごめ――」
「アンタが携帯しとんのは何や、ガラクタか」
会えた。吃驚するぐらいあっさり会えた、けど。
鞄から取り出して見れば、数分前に「何時に帰ってくるん」と聞かれている。必要以上にぶんぶん漕いでいた所為か全く気付かなかった。
にしても、これはどういう状況なんだろうか。ラストの踊り場手前で声を掛けられる。シチュエーションだけなら一年前と同じ。違うのは、ガーと怒鳴るのではない、奇妙な静けさを伴った低いその声質――と、左右きれいに高さの揃ったツインテール。
その不自然に冷えたオーラを疑問に思っていると「はっ、何やだんまりか」と尚も乾いた声が降って来る。とりあえず気圧されるままにもう一度ごめんと私が零した途端、彼女は理不尽に爆発した。
「ハゲが! ごめんごめんて、アンタごめんで流していつっまでたっても替えへんやんなぁ! 舞っててやら、見た目の方の変身しとくやら、コンビによるやら舐めとんのか! するっと読めるもん送られへん携帯なんか捨ててまえ!」
「ご、ごめん。でももうすぐ割賦終わるから――」
「そないして何やかんや変に頑固やし、持ち主のくせにゲームはヘッタクソやし、起こせ言うても起こさへんし、頼んでもないモン勝手に買うてくるし、たこ焼きはぼっそぼそにしてまうし、極めつけに髪フェチの変態やしでアンタてほんっましょーもないなぁ!」
「……」
腹が立った。
携帯やパソコンなど器械関係に無頓着なのは認めるし、急いでるとはいえ誤変換を炸裂させてたのも失礼だった。ゲームとかたこ焼きとか、その他の至らない部分も申し訳ないと思う。それを純粋な不満としてぶつけられたなら私だって真摯に受け止める。受け止めますとも。
でもそれって、半泣きで訴えるようなことなのかな。そんな、自分だけが傷ついてるみたいな顔で。ご丁寧に私の買ったヘアピンつけて、誕生日プレゼントのビーサンまで履いてきて。
――そうまでして断ち切って行かなきゃいけないあの町に、何があるの?
「嫌いになったって言いに来たんだ?」
「……っ」
「『だから』もう会わないって宣言しにきた。違う?」
気付けば思った以上に硬質な声が出ていた。でも私は構わずひよ里ちゃんの元まで残りの階段を上がり切る。そうして彼女の真正面に立ち、目を合わせようとしないその顔に出来るだけふてぶてしく言い放つ。
「ばっかみたい」
「……あ? 何やとコラ!」
「この期に及んでここがあそこがって挙げ連ねて馬鹿みたいだっつってんの。それとも私がメールちゃんと返せてたら、そのお弁当二人で食べれてた? 無理だよね、端から喧嘩売りに来てんだから」
「っ!」
「……っ、いった」
いきなり頭の左側にガコンと衝撃が走り、遅れてドサッと物が落ちた音がした。鈍い痛みを訴えるそこに手をやりながら斜めに見れば、ぎゅっと口を引き結んで瞳いっぱいに涙を湛えているひよ里ちゃんがいた。
「……アンタなんか、とっ、ひっ……だれ、誰が食うかっ、ボケ!」
しゃくりあげながら言い捨てると、彼女は物凄い速さでダダダと駆け下りて行ってしまった。遠のく足音を耳に、私はただただ呆然と立ち尽くす。
「…………はぁ」
結局言わないのか。動き出した頭で今しがたの一部始終を再生し、私はがっくりうな垂れる。と、そこで足元で無惨にひっくり返っている袋に目が留まる。屈んで拾い上げたその中には、思った通りの二種類の弁当。
嫌いだって言えないなら、初めからふっかけなければいいのに。こっちが突っ込めないカテゴリーを使うだとか、もっと何かなかったの? 何だっていいじゃん。よかったはずじゃん。
最後の最後まで理由が必要だった不器用な彼女の泣き顔を思い出しては「ひよ里ちゃんのばか」と子供みたいに悪態を吐きながら食べた弁当は、入れ物の仕切りが無意味なほどしっちゃかめっちゃかだったけれど、それでも凄く凄く美味しくて。
「……私はどこへも行かないのに」
――いなくなるのはそっちなのに。
何で私ひとりで食べてるんだろうと思ったら、いよいよ泣けてしまった。
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