秒針の進む先 3
素性不明な胡散臭いヤツ、か――
アケミさんの事を聞いてきた真子は、あくまで何気ない疑問を口にしたという感じで、その後も特に何を詮索するでもなかった。
だが改めて言われてみると言い得て妙だと思った。確かに私は、あの人の素性らしい素性を知らない。
正確な歳や住まい、生い立ち。よく茶化されてるいかにも男性っぽい本名も、或いはネタとして使っているだけかもしれない。
もっと言えば、あの業界には『職業オカマ』も少なくないと聞く。つまりはアケミさんとてあの一帯の外ではノンケの男性かもしれないのだ。
だけど仮にそうだったとして、何か変わるだろうか?
少なくとも私には『オカマのアケミさん』に会いに行ってる意識はない。目に見える繋がりは店と携帯の番号のみ。だからといって及び腰で向き合うような希薄な間柄、というわけでもないと思う。
そう考えると、いわゆるID的な情報は社会的信用以上の意味は成さない気もしてくるが、こと彼氏相手にそれではやはり足りないんだろうか。
だから、こんなことになっている?
「――あの聞いてます? 夏希さん」
「ん? おわっ!?」
「……」
……まずい。非常にまずい。すっぽーんとコームすっ飛ばしちゃったよ。
ラグの外、フローリングまで飛んで行きカシャンと派手な音を立てたそれ。ウィッグ相手だったのがせめてもの救いと言いたいとこだが、拾いに立った私の背に刺さる無言のプレッシャーは尋常じゃない。
いや分かってます。私が道具を落とすとこなんて初見でしたよね。や、でもあるにはあるんだよ? 真子の髪とかサラサラすぎてやっぱこう、するっとね? だからその、無言はやめませんか松田くん。
全力で動揺する一方で、どんな感じで振り向いたものか分からずに屈んだまま石化。彼がやっていたゲームのBGMがやけに耳につく。
何やってんだか、ほんと……。
延々わだかまるもっさり思考を拡散させるべく、生温い夜気を縫って歓楽街へ赴いて。そうして真子と普段通り過ごした一昨日の晩、私は切り替えたはずじゃないか。
働くこと、食べること、寝ること、遊ぶこと。とにかくそれらを疎かにしない。
考えたところで私に出来るのは要らん心配を掛けないことぐらい。やめだやめ。言い聞かせてまだ二日。そのくせ気付けば頭がそっちへ引きずられていて嫌になる。
それもこれも盆に突入して、半端な余剰時間が出来たからかもしれない。例によって店は暇。加えて今年うちの店はカットコンテストに出ない。
結果、普段より早い帰宅が叶ってラクな分、脳に隙間も生まれている。
「……ごめん。ちょっと考え事してた」
「別に、夏希さんに手を止めて貰うほどの話じゃないんで」
ぐっ。
笑って誤魔化すには相手が悪い。そう思ってごく普通に「申し訳ない」態で向き直るも、持って回った言い方をしつつ全力で胡乱げな眼差しを向けてくる松田くん。意図的に止めたんじゃないとご存知のくせに。
「……そろそろ終わってるかもしれないんで、見てきますね」
「え? あ、うん。ありがとう」
まーいいですけど、という表情になった彼がのそりと立ち上がって寝室へ向かう。縫い付けられるような視線から解放され、ほっと胸を撫で下ろす。
別にやましいことはない。でも何となく後ろめたいのは、何を考えていて虚を衝かれたのか自覚がある所為だろう。
少しして戻ってきた松田くんから全て完了した旨を告げられ、私はコーヒーを淹れ直すべくキッチンへ廻った。今日のように、シャンプーを買いに来たついでなどで定期的に彼はPCメンテをしてくれる。
「あの……言ってくれれば格安で作りますし、そろそろ替えませんか」
手にしたマグに目を落としながら松田くんがぼそりと漏らす。これを言われるのは恐らく3度目。OSのバージョン、速度、容量などを理由に。
元よりメンテを買って出てくれるのも使命感のようなものかもしれないが、それ以上に本当はもう、出来ればあれには触りたくないんだろう。
「……じゃ、頼もっかな」
リカバリーでまっさらにして貰ってそのまま使ってきたけれど、こんな風にあると、あの人の形に隙間があって成立していた私との関係が変わった日のことを、ふたり取り残された夜を、嫌でも思い出すのかもしれない。
時間が引き戻されたような空気が漂う中、顔を歪め、居た堪れない手つきで私に触れた人の「待ってくれへんか」という声が脳に木霊する。
――私は、何を待っているんだろう。
松田くんが帰った後、私はゆっくり時間をかけて半身浴をすることにした。投入したのは真子に貰って以来リピートしている入浴剤。爽やかな香りに身も心もほぐされ、とろりとした眠気に抗うことなくベッドに沈む。
今夜はよく眠れそうだ。やっぱ夏場もしっかり湯に浸かろう。
もやっとして切り替えて、またもやっとしたけど切り替えられた。ささやかな達成感も相まっていい気分で意識を手放した私だったが、どうやらジェットコースターのようなこの波はまだ終わらないらしい。
「何で起きてんねん、ボケ」
「……や、電話してきといてどうだろ、それ」
確認やアホ。ここは出ないが正解だとでも言いたげな窘めるような声が、眠気の尾を引く私の頭をゆるく揺さぶった。
半分ほど開いた目に天井に伸びるガラスシェードの模様を映し、アホなのは私なんだろうかとぼんやり考える。じゃあ、何でこんな寝静まった夜更けに電話してくるんだ。そういうことする人じゃないってことぐらいは、私だって知っている。
「くく、すまん振りや振り。寝とったやんな」
「いいけど……どした?」
「いや寝つかれへんついでに、ちょおオマエの声聞きたなってーなんちゅう甘ったるい台詞でも吐いてみるか思うてな」
「暑くて寝れないとか?」
「オマ、後半ごっそりスルーか」
ふっと聞こえた笑いは妙に優しげで、或いは本当にそうだったのかもしれないと少し思う。だとしても、間違ってもそんな熱っぽい会話をしたいわけではないだろう。
「部屋にいるなら、来る? こっち、まぁまぁ風入ってくるよ」
「んあー……やめとくわ。何や今日はオマエの明日とか飛んでまいそうやし。それよか、夏希」
「ん?」
「ちょお店に行ったれるかは微妙やねんけど、近いうちまた、髪切ってくれへんか」
本題のように仕切り直されたことに些か怪訝な気持ちになった。なぜこの電話で言おうと思ったんだろう。すっかり覚醒した頭を巡らせ、やはり何かあったんだろうかと眉をひそめる。
とはいえ断る理由もない。店に来る・来ないも、あの頃とは状況も違うし、今となっては私自身そこまで拘ってもない。
「勿論いいよ。いつでも」
「おおきにな。しゃーけどアレ、盆明けは予約パンパンでしんどいんやろ? ほな再来週あたりがええか」
「いや、真子の好きな時でいいよ」
何故だかそう言わなきゃいけないような気に駆られ、思いの外クリアな声が出ていた。もう一度「おおきに」と言う、やわらかい声。唯一する扇風機の音をも遠ざけて入り込んで来るそれが、私の中の違和感を大きくする。今夜の真子の声は、何か不自然なほど穏やかだ。
――顔が見えないことが無性に不安になるほどに。
「あのさ、やっぱ来ない?」
「何や、どないしてん」
「声を聞けば顔が見たくなる。幸い彼氏はお隣さん。だったら会えばよかろうなのだって話じゃない?」
「よかろうちゃうわアホ。顔見てオヤスミーは出来ん言うとるやろが」
「うん、分かってるよ」
知らない顔があってもいい。 全てを分かち合いたいとも思わない。
ただ、色々なものが見えすぎる眼と、それを受け止めて抱えるだけの器を持つ真子が、もっと、自分の感情に誠実になれたらいいのに、と思う。そういう瞬間が、もっともっと沢山あればいい。隣に私がいてもいなくても。
「……オマエなぁ。知らんで、ほんま」
少しの沈黙を経て呆れたように告げられたその後ろ、ドアをガチャと開く音に笑みが漏れる。安堵の息を吐いた私は、うーんと大きく伸びをした。
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