秒針の進む先 1
真昼のリビングでぶーんと回り続ける扇風機。ジンジャーエール片手に真正面に陣取ること1時間。髪はとうに乾き、座った時はひんやりと気持ち良かったフローリングも、今は腿の外側を吸い寄せるようにぺたつく。
ざっと寝汗を流し、買い物でも行こうと考えていた私だったが、気力ごと洗い流してしまったのかすっかり億劫になってしまった。うだるようなこの暑さの中、また一瞬で汗が噴き出すと思うと、余計に。
現在エアコンは28℃の省エネ温度。日ごろ日中の殆どをがっつり空調の効いた店で過ごす為、夜と休日ぐらいはと気を付けてるのだが、やはり暑いもんは暑い。キャミにショーパン。面積を減らしても誤差。
「アイスは1日2本までやぞ、かぁ……」
いよいよ母親みたいになってきたなと思いつつも、私はこの言いつけを守っている。だがこう暑いと、やたらとぼーっとしてしまって思考が空転する。それも、止め処なく垂れ流しになるから困る。
そうして脳に蔓延るあれこれは、けれどどこへも帰着できないまま、ぐるぐると同じところを行ったり来たり。まさに『考えてもしゃーない分かってても考えてまう時』絶賛体感中。
“……少し、待ってくれへんか”
だけど、その度にこんがらかりそうになる私を、あの日の真子の目が引き戻す。引き戻して、言われた通りにする以外にないのだと言い含める。
元々、物事の深いところを探るのは苦手なのだ。気持ちを切り替えよう。
何度もそう思ったが、流石に今回ばっかりは、せめて自分なりに心構えの糸口ぐらいは見出さないとどうにもダメらしい。悪戯に不安を大きくしては、必要以上に知りたくなるだけだ。
真子の言葉に了承した私が、自分が安心したいが為に心配の二文字を押しつけてはいけない。だからといって、何にも考えず能天気に待ってもいられない。
二度と御免なのだ。
――何もかもが手遅れ、そんな思いをするのは。
あの日の私と真子に、とりあえず部屋へ戻ろうという空気を作ってくれたのは、私を呼ぶひよ里ちゃんからの着信だった。
だけど私は、あの場では電話に出ない方が良かったのかもしれない。
「夏希! アンタ今どこにおんねんか!?」
いつもながらよく通る、いつになく緊迫めいた彼女の声。受話口からだだ漏れたそれに露骨に苦い顔をした真子。次いで、何か堪えるような表情で私を見つめてきた彼は目の前で、かくん、と頭を垂れた。
「……ちょうど、帰ってきたとこだよ」
ふー、とあからさまに安堵の息を漏らしたひよ里ちゃん。
この短時間、同じような勢いで私の所在を尋ねてきた二人。やっぱり何かしら不穏が迫っていたのは私だったんだろうか。そうだとしても、それぞれ別の場所にいたはずの二人が何故それを知り得たのか。
“俺だけの問題ちゃうやんか”
数ヶ月前の春、渋い顔で言った真子の姿が蘇る。その背景に『仲間』である彼等の存在があることなど分かり切っていた。
誰もいないのだ。
真子の行動圏、話題。隣に越して来るまでの彼と繋がっている人物の気配が、彼等以外に、誰も。
だからこそ、まさに『ソレはソレ、コレはコレ』。無関心ではないが根本は無関係。何度一緒にわいわい遊ぶ機会を持とうとも、そこと私は完全別個の認識だった。だったけど――
「ほなまた後でな」
「うん、じゃあね」
タクシーの中で私を支配していたような恐怖感はもう無かった。
真子の事情は彼等の事情でもあり、それが何らかの形で私にも影響を及ぼす可能性がある? あまりに置いてけぼりというか、正直、怖がるにも情報が少なすぎて、そんな冷静な分析すらしてしまう。
とはいえこの不穏な気配を見過ごすわけにもいかない。うやむやに出来ないことは真子も分かってるはずだ。あんな痛々しい顔はもう見たくないし、私とて最低限の危機管理はしたい。
私のそんな心持ちを感じ取ったんだろう。バイト中だからまた後でかけ直すというひよ里ちゃんと通話を終え、私と真子はどちらともなく並んで歩き出した。
「オマエんとこ脚立あったけか」
「ああ、うちと真子のとこの間の扉、あん中にあるよ。予備の蛍光灯もあるはず」
「ほー、ほなちゃっと換えたるわ。俺男の子やし」
「ワーアリガトー」
「うわ何やそれ。むっちゃハラ立つ」
――今日の行方は見えない。
それでも、向かう先で点滅する光を見上げこんな風にふざけ合えたことも、お互いが仕切り直す腹を括ったことを物語っていた。
部屋に入ってすぐ、真子は二人分のアイスコーヒーを淹れてくれた。
私がグラスを手にソファに腰を下ろすと、向かいのラグに胡坐を掻く真子。クッションを投じた日とは逆の構図で、まず一服。
ゆるゆると紫煙を立ち昇らせる中、真子は先ほどより藍を深めた窓の外を何処か虚ろな目で眺めていた。エアコンの音を意識する静寂。不思議と居心地は悪くなかった。
先に煙草を揉み消したのは真子で、吸殻から指先を離すと同時、すっと真顔で視線を合わせてきた。それを受け私も灰皿に煙草を押し付ける。静かに、空気が張り詰める。
火種を潰して一拍、再び真正面から真子を見る。僅かに揺らいだ薄い瞳は、どう言ったものか未だ自分の中を探ってるようにも見えた。
「……自惚れと思うてくれてええ。先にこれだけは言わしてくれ」
「うん」
「俺の身に、オマエが心配するよなことは何も無い。……ひよ里にもな」
ゆっくり一言一言、宥め諭すようなその声色に、ぎゅ、と胸が絞られる。
同時に浮かぶ、覚束ない手つきで私に触れた真子の姿。
私にとって一番の不安材料。それを真っ先に取り払おうとしてくれるのはやっぱり、真子も同じ心境だったからなの?
改めて真子の胸中を見せられた思いがして当惑がぶり返す。ひどく静かなこの部屋で、私の内側だけが不自然に忙しい。思わず眉をひそめた私に、真子は念を押すように言葉を重ねた。
「すまん夏希、オマエを不安にさしたいわけやないねん。しゃーけど、暫く空座町には行かんといてくれ」
「……いやごめん、全然わかんないよ真子」
空座町に行くな? 危険なのは空座町ってこと?
MAX混乱した私が額に手をやると、正面に「すまん」のひと言が落とされる。吐息混じりのその声が、事態を咀嚼せんとする私の思考に紗をかける。謝って欲しいわけじゃないんだけどな。
何にせよ、まずは自分の中を整理しよう。そう思って私はソファの上で膝を抱え宙を仰いだ。ふーと息を吐き、とにかく大事なことから聞こうと心に決める。
「……空座町に行かなければ、私に関する真子の不安はなくなるの?」
「せやなぁ」
「ん。分かった、なら行かない」
「……おおきに」
「それで、理由は話しては貰えないの?」
意を決して核心に踏み込んだ私が首を戻すと、真子は何処となくぼんやりした物憂い顔で伏し目にグラスを見つめていた。出窓越しに桜を眺めていた時と同じ、綺麗で、立ち入りがたい表情だ。
聞くまでもないと薄々わかりながら、でも私は来るだろう「すまん」に対し、「そこまで物分かり良くないよ」という言葉ぐらいは喉元に用意していたつもりだった。そういう覚悟だった。
――だが返ってきたのは肯定と否定、そのどちらでもなかった。
「……少し、待ってくれへんか」
まばたきと共に向けられたその目と、数秒じっと視線を絡ませた。離せなかったと言う方が正しい。真子の瞳は、ひたすら真剣に澄んでいた。全ての答えが出ているような、迷いのない目だった。
「……むかつくなぁ」
なけなしの言葉を飲み込む代わりにせめてもの悪態をぼやく。そう来るとは思ってなかったのか真子がピクと肩を震わせる。だがその程度の反応はして貰って然りだ。こういう時の真子は本当にずるい。
そんな目をするのは、ずるい。
「ハァ……まぁいいや。でも勝手にあれこれ考えたり、心配はすると思う」
「あーそらしゃあないな。俺かてむちゃくちゃ言うてる自覚はあるし」
「てかお腹すいた。駅戻るの面倒だし何か頼まない?」
「お、おーええな! ほなバーンと寿司でも奢らせて貰いますわ夏希サン」
あからさまな気の遣い方に半笑いしつつ、空気の一新に『お腹すいた』ほど便利な言葉は無いとつくづく。そうして通常モードに戻った私たちだったが、結局この日、ひよ里ちゃんからの折り返しは無かった。
そして恐らく、真子から話を聞くなりしたのだろう。数日後のメール、一週間後の約束の日も、彼女がその件に触れることはなかった。
真子は真子で、態度こそ普通だが行動が妙だった。以降2週間、毎晩のようにゴールの段で私を待っていたり。かと思えば丸5日戻らず、月曜の昨夜にひょっこり帰ってきたり。
そんな様子を覗いつつ、時折こうして可能性の旅に出てみる私だが、何か因縁のある人が塀の中から出所しただとか、それこそ曜サスめいたB級発想しか浮かばず、途方に暮れるばかりなのだった。
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