あの人とこの人:喜助
――禍福はあざなえる縄のごとし。
なんて、風向き任せに達観できるほど、アタシらとて強いもんじゃァない。
ここの景色に見合うよう構えた商店も、いつしか懐かしむ視線を浴びる対象へとその価値を変え、丸百年。全てが時の巡り合わせ、引き合わせであると云うならば、なぜ今この時でなくてはならなかったのか。
“あれは、平子の声じゃった”
“……っ、まさかァ!”
“この儂が聞き間違えたと申すか”
夜一サンの聴覚を以ってして電話口から覗い知れた仲睦まじい男女の様相。そこに示された事実は、手にした煙管を落としそうになるに充分すぎる衝撃でした。
お相手が人間と言えど、何処ぞの見ず知らずの女性であったなら、さらりと咀嚼も出来たでしょう。長の現世滞在、虚心坦懐に向き合うまではいかずとも、そうした出逢いのひとつもあって然りというもの。
軽々しく良かったなどと口には出来ませんが、勝手ながら一友人としても、何の興もない日々と聞かされるよりは遥かに喜ばしいことっス。
……けれど、数奇なものっスね。
“なかなか面白い娘じゃったぞ”
「どうせまた、ああだこうだ入れ替わり立ち代わり食いつかれるのだ」と、出掛けに散々億劫がっていた夜一サンは、件の美容室へ赴いたあの日、艶やかな髪を揺らして上機嫌で戻られました。
ずらずらと鏡が並ぶような店は内容こそ当たり障りないが、工程ごと替わる従業員サンに同じ質問、同じ商品の営業もされる。
かといってこじんまりとした個人店では、話し方ひとつ取っても不用意に特定的な印象を持たれやすく、それはそれで面倒だ。
いずれも快適な時間とはいかないならば、せめて無用なリスクは避けるが吉。そうして前者を選択した夜一サンでしたが――
詰まるところ、全てはタイミングの産物だったんでしょう。方々が慌しく動き回る中、それなりの肩書きをお持ちにして一人だけ終日予約要らずな方がいらっしゃった。
周囲の喧騒から切り離されたような空気を纏い、洗髪から仕上げに至るまでの全てを担当したその方は、要らぬ詮索や営業、大仰なパフォーマンスもなく、終始自然体で楽しそうにお仕事をされてたそうっス。
“何ゆえ美容師を志したかと聞いたらば、とにかく髪が好きなのだと言いおってな。そこそこの器量にして、何やら酔狂なところのある娘じゃったのう”
次もあそこへ行ってみるかの。愉快そうに話して下さった夜一サンでしたが、数日後、すぐにそれは叶わぬものとなりました。
“表があれば裏がある……っスか?”
醒めた顔でちゃぶ台に頬杖をつき、アタシが淹れた湯呑みを啜りながら、けれど長々目を落としていた一冊の雑誌。そこに記されていたのは、およそ夜一サンから伝え聞いた話からは想像し得ない内容でした。
“……さてな。何にせよとうに腹を括っていたということじゃろ”
さも興が削がれたというような口ぶりで、アタシに背を向け片肘をついて畳に横になった夜一サン。その頭頂から背に流れる、美しい光沢を放つしなやかな髪を目前に、容易に予想は出来たっス。
良く言えば気に掛かる、あからさまに言ってしまえば退屈凌ぎ。
本来、特定の人間サンにかかずりあうべきではないんスけど、そうは言っても時間は持て余しても余りあるんだ。まして、誰に咎め立てされる訳でもない。
アタシ自身さして気に留めないでいたこともあり、自分なりの答えを得たのか、気付けば夜一サンは細々ながらその方と繋がりを持たれていたようでした。
――しかし。
“早うせい”
その方の腕の中で、今まさにその生を終えようとしている己と同じ姿の生き物を助けよ、と。理を無視したその突飛な命に眉をひそめたアタシを、夜一サンは有無を言わさぬ語調で急かしたものっス。
そうしてアタシがその川村夏希サンという方と言葉を交わしたのは、日を跨いでのたった二回。しかしながら、なるほど話しやすい。
若くしてそれなりに人を見て来たか、ないしは頓着するところが些か変わっているのか。純粋に猫サンの生還を喜び、時折不思議そうな顔を見せながらも取り立てて立ち入ったことを聞いてくるでもなく――
“綺麗な月色ですねー”
そんな風にアタシの髪を讃えてくれた彼女の、愛おしげなものを乗せたその眼差し。夜一サンに酔狂と言わしめたそこに表も裏もないみたいっスね、と思わず内心で笑ってしまったほど和やかなひと時でした。
だから、分かるんス。
誰より先にあのひよ思サンが、というのは正直意外でしたが、それでも当初は束の間、その楽さに甘んじるだけのつもりだったのでしょう。
けれど彼女は我々のような存在にとっても至極平和な人だ。適当に受け流してくれるだけの余裕、人間らしい愛嬌もある。
肩の力を抜いたフリがお上手な平子サンが、真に肩の力を抜いて安らげる相手。しっくりくるんス。お似合いだなァ、と。
「――住所からすると、かなり近いっス」
「チッ……!」
「集結速度といい魄動といい、少々気になります。状況見てアタシも向かいますんで、平子サンはすぐに夏希サンに連絡を」
「……分かった」
だからこそせめて、もう少し早ければ。
遅かれ早かれ避けられない別れ。心の枷になりかねない関係を築くことに何の意味がある? そんな葛藤、とうに飛び越えた上での今でしょう。
彼等にもアタシにも、百年もの時が確かに在ったというのに。
冷徹な決断をしておきながら片隅で疼く不毛な感傷。それは所詮、少しばかりお節介焼きだったり、不器用ながら真っ直ぐだったりする友人たちを憂う、アタシの身勝手な独り善がりだ。
けれどこんなアタシの思いのたけを言おうもんなら、平子サン、アナタは一笑に付して言うのでしょう。
――アホなこと言うとらんと、さっさと終いにしよや、と。
「さァーて、ぼちぼちお助けにあがるとしますかー」
見込み違い? そんなこと言ってられるような事態じゃァない。
悪いがアナタには、何としてもコレを乗り越えて貰うっスよ、黒崎サン。
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