交錯する思い 11
その日の私は、アラームの鳴る一時間も前にパチと瞼が持ち上がったほど目覚めが良かった。
非日常的な日曜から二日。後半、絶叫ふたつとポストコにおいても何かと驚きの連続だったけど、今振り返っても、遊んだー! という充足感が沸いてくる。
週に一度の休み。体の大事と気持ちの充実、徐々にその選択が難しくなってきてはいるが、何だかんだ私は単純な人間なのだと思う。
「何やふぇらい早起きサンや、ふぁ〜……」
シャワーを浴び、洗濯機を回しながらのんびり支度していたら真子の起きる時間になったらしい。洗面台に向かって団子を作っていた私の横で大欠伸をかます眠気眼。鏡越しにおはよう、おはようサンと交わす。
「あのお姉チャン今日も煽ってたか?」
「今日も猛烈な暑さになりそうです」
「モーレツて。ハァ〜……かわいい顔して毎朝毎朝、まーがっつしモチベ下げてくれよるなーほんまぁ」
「でも牡牛座3位だったよ」
3位て、と微妙そうな顔をしつつ、傍らの日焼け止めを取ったその手にするすると首の後ろを撫でられて行く。そうして最後、これでよし、というようにペチペチすると、もそもそと服を脱ぎ真子も浴室へ。
その間に私は珈琲を落としながら洗濯物を干し、キスケさんと遊んで。シャワーから上がった真子と軽食を摂って一服。どちらともなく壁の時計に目を向け、よっしゃ行くかと一緒に部屋を出る。
「夜までには戻るんやろ? 俺もバイトだけやし、ほな久々にリサんとこ食いにでも行くか」
「お、いいねー」
「しゃーけど酒はほどほど、メインは肉やぞ。ええな」
「ふふ、はーい」
そんな、いつも通り真子にあれこれ気に掛けて貰った、いつもよりほんの少し余裕のある、穏やかな朝だった。
昼過ぎに始まった講習は滞りなく定刻に終了。懇親会の誘いを断った私は、手土産を何にするかあれこれ思い巡らせながら、数時間前に来た道を気持ち足早に歩いていた。
大家さん宅へは直で向かう方が近い気もするが、用事が無ければ来ることのない空座町にはあまり土地勘がない。面倒だが一旦駅前に戻るのが得策だ。
フルーツ、ゼリー、水羊羹、くずきり、そうめん、ビール……は、ちょっと重くてきついかな。
腕を組み、少し先の舗道を見つめながら、涼しげな定番商品をポンポン頭に浮かべていると、不意に正面から賑やかな声が聞こえてきた。
「あーあ。『期末テストなんて人生においてさしたる意味を持たねぇ!』――キリッ! とか豪語しといて23位だもんなー」
「はいはい。あんまりしつこいと本格的に遊んで貰えなくなるよ」
「ちょ、何だよその自分は違うみたいな感じー!」
つられるように顔を上げると、前から来る制服姿の男の子二人に目が留まった。傾いた西日を浴びた白い半袖シャツにふっと懐かしい思いに駆られる。そっか、もうすぐ夏休みか。
かき氷、量産したなぁ。
彼等のような街中の高校生ではなかった私にとって、夏休みといえば父の知り合いの海の家でバイト三昧。時給こそ安かったが毎日誰かしら友達が顔を出してくれたり、波があれば閉店後に海に入ったり――
あれ、何か頭……。
あの頃はあの頃で楽しかったなーなんて回想しながら彼等とすれ違って程なく、駅ビルが見えてきた辺りでぼんやりとした頭痛を覚えた。ここ、というピンポイントではなく、脳全体がじわじわ凝縮するような。
台風でも来てるんだろうか。でも今朝の天気図にそんなマークは無かったし、「こまめに水分を摂りましょう」以外お姉さんも何も言ってなかった。
やはり気付かない内に夏バテによる疲労は蓄積されていて、室内外の気温変化に体がついていかなくなってきてるのか。
やっぱ無理にでも食べないとな。自省しつつ近くの百貨店に足を踏み入れようとしたその時、震え出した携帯の表示を見た私は、あれ? と思った。
――まだ、バイト中じゃないの?
「もしも――」
「夏希! オマエ今どこや!」
こっちの言葉を待たずに鼓膜を揺さぶったその声は、怒鳴り声にも似た想定外な気迫の篭ったものだった。吃驚した私は思わず放心してしまう。
何だ? 何か怒られるようなことしたっけ、私。
「どこや! 空座町のどこにいてんのか!」
「どこって駅前、だけど……」
「ほな今すぐタクって戻って来い!」
「は? や、でもこれから――」
「頼む夏希っ!」
「……真子?」
「頼むから何も言わんと戻ってくれっ……!」
つ、と汗が背を伝う。
全身が心臓と化したように乱暴に逸り出す鼓動。一瞬にして水分を失った口内。横を過ぎた人が自動ドアをくぐり、店内から漏れ出た冷気でぞわ、と足元から鳥肌が立った。
「…………わかった」
数瞬を経て漸く意味を成す音を発した私。けれど未だ頭はよく働かない。どこか遠い意識であてどのない疑問ばかりが浮かぶ。
何? 何が起きてる?
喉の奥が擦り切れてしまうんじゃないかと思うほど逼迫した真子の声は、言葉の端が微かに震えていた。
タクシーの車中、私はただただずっと、目の前の封印された灰皿を見つめていた。とにかく何かがとても怖かった。怖くて、ひどい気分だった。
もしかして私は、また間違えたのだろうか。
個を尊重し合える真子との関係が好きだった。でもそれは、平穏が故に成立してただけ? 少なくとも今の私は、私の与り知らぬ所で彼の身に何か起きても、ひよ里ちゃんとHolyに連絡する以外の術を持たない。
真子がどんな人かは知っていても、彼は何者かと聞かれたら答えられない。それは、彼と向き合ってきたひとりとして恥ずべきことだろうか。
人様の家でもボヤを認めたらドアをぶっ壊してでも火元へ飛び込むように、平子真子という人間の奥深く中枢まで踏み込んで、知ろうとしなければいけなかった?
ひと度ぽたんと落ちた不安の雫は、たちまちこれまでの全てを塗り替える勢いで私を浸蝕し、良くない方にばかり思考が流れて行く。
そんな風に私は、『真子に何か起きたもの』と、馬鹿みたいに信じて疑わなかった。
――けれど。
「……っ!」
遠目にも分かる大好きな金髪。アパートの入り口付近で夕闇を従えて立ち尽くしている痩躯。減速したタクシーの窓からコマ送りのように視界に焼きついた、いつにない強張った表情。
何で? 何でそんな場所で、そんな顔して待ってるの?
財布から5千円札を抜き取った私は「お釣りいいです」と口早に告げ、急ぎ彼の前に降り立った。
「しん、じ……?」
「……」
見てるこっちまで苦しくなるほど切なげに顔を歪め、繊細な輪郭を辿るかのようにさやさやと頬に当てられる真子の手。無事を確かめているようにも思えるその所作に、私は一抹の違和感を覚える。
ひょっとして何か起きた、ないしは起きそうだったのは――――私?
だが思い当たる節が何も無い。電車で空座町まで行き、講習を受け、駅前に戻って真子に電話を貰うまでのその間、危しげな人物を見かけた覚えも無い。それとも、私が気付かなかっただけ?
ただ何にしても今は、目前の憂いを含んだ薄い瞳、きゅっと結ばれた唇、たどたどしく私に触れる指先、その全てが居た堪れなくて。自分がそうさせてるのかと思うと、悲しくて、申し訳なくて。
――だけど私は一体、何に謝ればいいんだろう。
「遅くなって、ごめんね」
「…………すまんっ、すまん夏希!」
正解に辿り着けないまま取って付けたように零した私を、今一度深く顔を歪めた真子はガッと掻き抱いた。止め処なく降り注ぐ熱を帯びた謝罪。彼の肩越しに見えた5階で、切れかかった蛍光灯が点滅していた。
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