動き出す過去 9
パツン、パツンと控えめに届く音でふっと目が覚め、朦朧としたまま瞳だけで辿ってみれば夜を映す出窓をしっとりと濡らしている、雨。
こりゃ明日も徒歩かなぁ、などとぼんやり思いながら、片腕を額に乗せ見慣れた天井を見つめる。
……あれ?
徐々にはっきりしてきた意識がモゾ、と体を反転させ、自分の眼が見慣れたガラスシェードの光を捉えるや否や私はバッと上体を起こした。
「〜〜〜っ!」
刹那、ぐわん、と視界がブレたと同時に軋むような刺激を頭に覚える。足元には丸まった体勢のままチラリと私に一瞥をくれるキスケさん。余韻を伴う痛みにこめかみを押さえつつ、落ちる前の自分を思い返し、もしやこの歳にして初の記憶飛びをやらかしたか!? と動揺が脳を駆け巡る。
とにもかくにも一体今は何時なんだ、と出窓に置かれた携帯に手を伸ばしかけたところで聞こえた、パタンパタンというスリッパの音。
「んお、起きたか。おはようサン」
寝室の入り口に現れたは半裸にタオルを引っ掛けた『ザ・風呂上がり』な姿の真子。手にしたミネラルウォーターをごくごくラッパ飲みして、もう1時過ぎやでーなっちゃん、とひと言。
「え、マジでいつ帰ったんだろ私……っ、つぅ」
「ったく、しゃーないやっちゃのぅ」
脈打つ鈍痛に再び頭を押さえると、呆れた声でほれとペットボトルを差し出された。すんません、と小さく謝って蓋の開いたそれを受け取る。
「ん、ハー……なんか脳がミシミシいう……」
「まー随分と老朽化が進んでらっさるようやからな。覚えとらんのやろ? 暴れよったん」
「あばっ……!?」
「オマエ実は酒癖悪いねんな〜ケタケタ笑いながら脱ぐわ跳ねるわのおおわらわやってんでぇ〜?」
一瞬で血の気が引きかけたものの、口角を下げた真子の口ぶりが余りにわざとらしく、じーっと上目で凝視する。第一私の格好は斉藤さんの部屋へ行った時のままだ。
「……まー嘘やけど。ただ、寝ながらしきりに俺ん髪に頬擦りするちゅー変態行為はたらきよったんはマジやねんで」
「うわぁ……」
それはやりそう過ぎる、とうな垂れた私をくくっと笑ってベッドの縁に腰掛けた真子は「まーそれもこっち戻ってきてからん話やけどな」と付け足した。
それを聞いてハッとなった私は漸くそこで自力で戻って来たわけではないことに気付き、後ろ手をついている彼の腕をそっと握ってごめんねと告げた。
「ふ、アホか。たかだか2階ぽっちや。ほれ、オマエもちゃっとシャワー浴びてき」
首だけで振り返った真子に脇腹をちょんと突つかれ、ぎゃっと仰け反った瞬間また、私の世界がぐわんと大きく回った。
熱めのシャワーで幾分かすっきりしてリビングに戻ると、ほど良く除湿の効いたそこには香ばしい珈琲の香りが漂っている。誘われるようにキッチンに目を遣るとちょうど真子がマグにサーバーを傾けているところだった。
細身のカーゴスエットに体に馴染むような小さめのTシャツ。そのままいつものハンチングとスニーカーをプラスするだけで余裕で街へ繰り出せそうだが、真子にはれっきとした部屋着。かわいいのにな。
ソファへ回ってカウンター越しに覗き込めば「二日酔いの頭痛にカフェインはええねんで」と何処となく機嫌の良さそうな声が言う。先に寝てて良かったのにと思いかけたものの、ブツクサ言いながらも人の世話を焼くのは嫌いじゃないんだろうな、とそんな姿に思う。
「あれ、砂糖入れるの?」
「牛乳もや。低血糖状態からの回復、胃にも優しい。我慢せえ」
「ふふ、はーい」
自分はウコンパワーで済ましちゃうくせにと心でツッコミつつ聞き分け良く返事をすれば、何やねんとばかりにジロリと視線を頂いた。次いで目の前にトンとふたつ置かれたマグをありがとうと受け取ってテーブルへ向き直る。その間に真子はカウンターを回ってソファへ。
「ほんでどやってん今日は。あーそういや斉藤サン、えらいオマエに感謝しとったで」
「ん、何で?」
「いや何でて。オマエがいっぱいあの人ん話聞いたからに決まっとるやろ?」
「え、そう言ってたの? 斉藤さんが?」
ハァ? 他に誰がおんねん。そう言って隣に座った真子にマグのひとつを手渡しながら、ははーんと思い至るところのあった私は思わず苦笑を漏らした。
――ほんと、敵わないなぁ。
「あはは、逆逆、逆なの」
斉藤さんの何が凄いって、あの弾丸トークを展開しながら目はしっかりと相手を見、その頭でリアルタイムに様々な分析がなされるていること。お祝いのつもりが、乾杯してまもなく「で、何があったのー?」と聞かれた時には心底ギョッとしてしまった。
そうして凄まじい速さで識別された情報たちは、更に斉藤さん自身の思い遣りを加え、口にすることとそうでないことへと振り分けられる。
「逆? 逆て何が」
怪訝な顔をしている真子の顔を見つめながら、やっぱり私にはどう言ったら負担にならないか分からないな、と思う。
独りなら、自分の中で折り合いをつけるだけのこと。ましてや話さなきゃいけない、なんてこともないんだろうけれど。
「今日話を聞いて貰ったのは、どっちかっていうと私の方なんだ」
「んあ、そうなんか?」
「うん。実は今日、べっこり自己嫌悪に陥ることがあって」
「何や、式場でなんかあったんかっ?」
口にした途端ぎゅっと眉を寄せた険しい顔つきになった真子に首を振り、セットは問題なく仕上げられ、新婦がとても綺麗だったことを告げた。
「でも、断わっちゃった」
事の顛末を話している間、背を丸め隣で胡坐をかいていた真子は、煙草を燻らせながらテーブルの灰皿を見るともなしに眺めているようだった。
頼まれたけど断わった。そこまでを口にしたところでこちらを斜めに仰いだ彼は、特に驚いた風もなく、ただじっと私を見つめてきた。
「怖かったんだよね」
――例外を作ることが。
流された自分を知っている。周りに、人の言葉にただただ翻弄されて、何の覚悟もなく。
ひとたび自分を曲げてしまえば今回はこうだから、次はああだからとドミノ倒しのように崩れて行きあっという間になりたくない自分に逆戻り。容易に想像できる図式。瞬く間に恐怖に心が絡め取られた。
「ひどいよね、ほんと……」
「……ほんまやなぁ」
苦笑を漏らす私に吐息混じりに言って煙草を揉み消した真子は私の肩を抱き「サイテーやで」と畳み重ねる。
……凄いな、何で分かるんだろう。
時間外だったとか、たかだかビールの為とはいえ出掛けるところだったとか、何も傷つけたわけじゃない、とか。本音を言えば、出来ることなら蓋をして目を逸らしてでも怖いことに追いつかれないように生きていたい。恐怖や不安に囚われ足踏みすることなく進みたい。
けれど私は、追いつかれてしまったからといって『そんなことない』という言葉で甘やかして貰いたいわけではなくて。
色んなことが簡単には口に出来なくなって行く中、せめて大事な人の前でぐらい、怖いことを怖いと言える自分でいたいと思った。
「あーあ、アホで変態ですこぶる要領悪い。俺ん彼女ほんましょうもないねんな〜」
「面目ないです……」
右手で指折り言いながらも、回していた左手は私の頭をコテンと肩へ導き、くしゃりくしゃりと優しく撫でる。目を瞑ってその感触を存分に感じていると、滑り降りて来たその手にくいと顎を持ち上げられ、なぁ、と薄茶の瞳に覗かれた。
「納得は出来てんねやろ?」
「……時々こういうことがあった方がいいって、思えるくらいには」
「ふ、せやなぁ。俺もそう思うわ」
先週も大概レアやなー思うててんけど今週はとびっきりやな。そんな風に続いた声色が何処となく、嬉しそうで。
言い過ぎてもダメ、言わな過ぎてもダメ。そのバランスを見極めるなんて高度なことは、やっぱり到底出来そうにないけれど。
もう少し、甘えてもいいのかな。
そう思った私は、のそりと身を捩って向き合うように真子の腿の上に跨がり、その首にぎゅっと腕を回して――
「……何や発情したか? ちゅーかオマエちょお軽なった気ぃすんねんけど」
「ここんとこ真子飯たべてないからなぁ。てかひよ里ちゃんどうしてる? 何か最近メールが素っ気な……?」
言いかけた私の目の前、みるみる「うわぁ……」という表情になった真子に気付いて「あれ?」ってなった。
「オマエなぁ……もうちょい場ぁちゅーモンを考えんかい。何でめっちゃチューした後に、最近カレが冷たいんだけど〜的な話聞かされなアカンねん! 何やオマエらラブラブか! 俺は2番目のオトコか、あぁ!?」
「……」
「……」
「……ラブラブ、かも?」
「おっしゃ決めた。けちょんけちょんに犯したる」
言うが早いか人の肩を掴んでぐっと押し倒し、ソファに片膝立ちになった真子がバッとTシャツを脱ぐ。
首筋にひやりとした金属質の感触が這い回る中「何か地雷でも踏んだか?」と疑問に思いながら、私はその背にそっと腕を回した。
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