動き出す過去 4
何やら貸切のようで良い気分じゃなー! と見るからにご機嫌な夜一さんの髪にシャンプーを施し、席へ戻ってドライヤーを当てて行く。優に腰ほどもあるそれはいつ見ても活き活きとした独特な色味の艶を放っており、確かに短くしてはもったいない気がする。
「しかし男が出来ていたとは驚きじゃったの〜」
「あー……あはは、まだ半年足らずですけどね」
乾かした髪をコームで整えていると、ニヤけた表情で鏡越しに私を見遣る夜一さん。思わず苦笑が漏れる。
先月、旅行中とは知らずに電話してきた夜一さんに、店が休みで温泉に来ていると告げたら、時期的に思い当たったのか「ああ社員旅行か」と言われた。
それを否定したところ、私を呼ぶ真子の声を聞きつけたようで、ほーう、となったらしい。無粋なタイミングでかけてしまったようじゃな、とすぐに本題へ移った。
けれど切る間際に告げられた「良かったのう夏希」というひと言。それを聞いて私は、やっぱり心配して下さってたんだなと改めて思った。
本当にトリートメントが欲しいだけなら店に行った方が早いし、今では専売品サイトからの購入も可能。アケミさんといい、夜一さんといい、曰くつきの私とわざわざコンタクトを持つなど、世の中には奇特な人がいるものだ。
「……そうか、幸せなのじゃな」
しみじみ言いながら、何か感慨深気な笑みを向けられて私は思わず言葉に窮してしまった。
私は幸せだ。好きな仕事があって、友達もいて。真子と時を重ねる日常にとて不満らしい不満も無く、そう思う自分にも嘘偽り無いと言える。
だけど、真子はどうなんだろう。
喧嘩の名残から、仲間内に未だ多少気まずい空気があるとは聞いているが、私といる時の真子は一見普段とそう変わらないように見える。けれどここのところ、例えば風呂やトイレなどで少しの間その場を外して戻ると、真子の険しい顔をよく目にするように思う。
私に気付くと、瞬時に殺伐としたオーラごとその表情もほどかれる。真にほどけているのか、無理してほどいているのか。そんな風に最近、真子の思考の所在がよく分からない。
――最近? いや違う。 いつまで見えないふりをするんだろう、私は。
ひどく苦しげだった新月の夜。痛いほどに切なげだった誕生日の夜。ほとほと疲れ切っていた先週の夜。言えることと言えないこと。昔の話をしてくれる時に決まってする、あの虚空を見つめるような眼差し。
ちょっとずつ、ちょっとずつ見せてくれた真子の欠片を集めれば、彼が何か繊細な事情を背負っていることは明白で。
山となるほど開封出来ない手紙を溜め込んでいた去年までの私のように、真子にも終わっていない何かがあるんじゃないか。だとすれば私には、それに気付かないふりで踏み込まない以外に出来ることが無い。そう思って直視することをやめた。
結局、怖いだけなのかもしれない。
傍にいながら相手のサインを見逃し、また気持ちを読み違えてしまうんじゃないか。何ひとつ理解できないまま、また、この手をふりほどかれてしまうんじゃないか。
“オマエ、そない自分が可愛いか?”
相手を想いながら自分のことをも守っている私に、矢吹さんのことなど言えたものだろうか。
私に甘えすぎだと言う真子。その甘えを傘に自分を守っている私。
私たちは、この都合の良すぎるバランスがあって保たれているに過ぎないのかもしれない。本当にこれで良いのか分からない。
――だけど、それでも。
セットイスの高さを調整してハサミを入れる直前、何かすっと気持ちが真っ直ぐになり、私は鏡の中の澄んだ猫目に視線を合わせた。
「……夜一さん。何も出来ないことと想いが少ないということは、イコールじゃないですよね?」
それでも、真子が帰りたいと望む限り、そこに当たり前にいる私でありたいと思う。分からない心にも寄り添える自分でありたいとも。
「あ゛ーキショうて堪らん! 体中ベッタベタやでぇ〜」
その日の夜更け。気温の下がらないまま雨が降りしきる中、真子は顔いっぱいでウンザリを表して集まりから帰って来た。聞けば一時小康状態だった昼にバイトへ行き、あがった時分も小雨だったからとハンチングひとつの姿で直行したとか。
徐々に粒を増した雨に当たったと見えて、しっとりと水気を含んだ直毛金髪は帯状に束々を作り、所々貼っついてるシャツは濃淡を生み出している。
「ほんま最悪やで、こん雨と汗とが奏でよる強烈デュオ」
「すんげー湿気だもんね」
「……そういうオマエは随分と涼しそなカッコしとるやんなぁ〜?」
「ちょ、やめっ……ぎや〜!」
タンクトップにスエット姿の私をピタと捉えるや否や、ぐっちょり生温いその腕で人の体をホールド。次いでオマエもこん気色悪さ味わわんかいほれぇ〜とか言って思いっきり素肌になすり付けてきやがった。何たる嫌がらせ。
奇怪な悲鳴を上げたリアクションに満足したのか、ほなシャワー借りるわーと言って真子は大層ご機嫌な足取りで風呂場へ。やれやれと思いながら、私は途中だった明日の準備を終えるべく作業部屋へと足を向けた。
春に招待状を貰った友達の結婚式を来週に控え、明日は新婦に頼まれたヘアセットの打ち合わせで朝から出掛けねばならない。
「……なぁ、夏希」
と、そこへガチャという音の後に自分を呼ぶ真子の声。ん? と振り返れば、半開きの扉から上半身を覗かせているその顔が何か言い難そうに口を開いた。
「んあ、いやぁ……髪洗うて欲しい言うたら、アカンか……?」
つまりは翌朝早い私に、こんな遅く帰って来た自分が頼むのも何だけど、てことか……。
「いいの?」
そんなこと気にしなくていいという意味も込めいつも通りに返せば、真子は眉尻を下げ、ふっ、と淡く笑った。
「ほんま、オマエの『好きのパワー』は感服もんやわ」
「ふふ、単純でいいっしょ?」
突き詰めれば、私を動かしているのは殆んどそれに尽きるのかもしれない。無論、好きが故にしんどいことだってあるけれど。
それでも、疲れていようが明日早かろうが、好きというだけで存外クリア出来てしまったりする。それくらいの力があるのだ。
――髪も、真子も。
「お痒いところはありませんか〜?」
「んあ〜左肩甲骨1.5ミリ下ぐらいやな」
「それではコレをお使い下さ〜い」
「おーおおきに〜って、かいてくれへんのんかい!」
いつものリクエストに応えてバリバリのマニュアルトークを店仕様トーンで展開すれば、これまたベタなひやかしが吹っ飛んで来る。
ジャッと片手を流し、近くのカールクリップを真子の右手に握らせてツッコませる、なんていうアホな美容室ごっこに興じるのももう何度目か。
「ほんで、今日はどやってん」
そうして今日もまた、トリートメントを揉みこむ工程に入るタイミングで真子が聞いてくる。気付けば何となく、自然に出来上がっていた流れ。
「うん。大事なお客さんが初めてアジールに来てくれて、凄い嬉しかった」
ボディソープの匂いを漂わせている真子が「ほー?」とタオル下から興味深そうな声を上げる。私は知り合ってから今までの、決してあまり多くはない夜一さんとのエピソードをざっと順を追って話した。褐色美人ながら語尾に『じゃ』がつくような古風な喋り方をする、というような個性的特徴も添えて。
真子から意外なことを聞かれたのは、軽くトリーメントを流して溜めた湯に、髪を浸してちゃぷちゃぷしていた時だった。
「……ほぉん、なんちゅー人なん?」
「えっ、珍しいね? そんなん聞くの」
ホニャララさんていってねーなどとこっちから言わない限り、私のお客さんに纏わる真子の認識方法は『なんちゃらの話をしたコレコレが好きな人』という感じが常。
あれこれ想像するんはおもろいなーとも言ってたし、こんな風に名前を聞いてくるなんて初めてじゃないだろうか。
「そらオマエ、オマエんとって大事な人なんやろ? 知っときたいも思うやんけ」
「……ふふ、そっか」
何だか嬉しくなった私は、湯の中でたゆたう金糸を見つめながら、向こうから見えないのを良いことに存分にニヤけつつその名を告げる。
「夜一静香さん、なんだけどー……実際ちょっとキャラ違うんだよね」
「……ぶっ!」
顔にかけたタオルが一瞬ぼふん! と上下するほどに噴出した真子は「何やねんそのサトウトシオ的なノリ」などとぼそぼそ零していた。
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