充電と放電 11
パチ、と瞼を開けると見慣れない木の天井が飛び込んで来て、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
ああそっか、などとぼんやり思いながら、仰向けだった自分の体をモゾ、と横向きにする。そうして薄く口を開いている真子の顔を正面に捉えれば、いたって穏やかな寝顔と寝息。思わずほうっと息を吐いた。
次いで枕脇をまさぐり携帯を取って時刻を確認。あと20分ほどでセットしたアラームが鳴る。
そろりと布団から出た私は、ローベッドの配されている板の間を降り、振り返ってもう一度真子の寝顔を確かめてから例の襖をスーと引き開けた。
それから煙草と灰皿を手に広縁まで行き、薄く開いた窓際で澄んだ朝の空気に当たりながら、伸びひとつ。
「……ふぃ〜」
脱力と共に間抜けな声を漏らし、5月でも肌寒い山の朝、椅子の上で縮こまるように膝を抱え浴衣の裾を合わせる。と、そこでその下にレギンスを着用していた昨夜のことが思い出され、ふふっとひとり笑った。
“何ちゅーかその、すまんかったなぁ……”
“え! や、こっちこそ……”
図らずも真子にもたらしたらしい心理的負荷が具合の良いハンデとなり、思いのほか温泉卓球はいい勝負になった。
アンフェアなルールは最初の1回きりで、煙草の銘柄やゲームなど、互いに通じるジャンルへと移行。例の、ポケットから出てくる道具の名前に至った際には声真似も加わって、殆ど爆笑しながらのそれだった。
そんなこんなで不愉快を露にしたことなど私自身とうにこってり忘れていたし、元より真子は何ら悪くない。にも拘らずはなれへの戻りしな、不意に気まずそうな口ぶりで真子に謝られた時は、吃驚しすぎてこちらが慌ててしまった。
確かに彼女たちのあざとさには正直マジかと思ったが、日頃から目立つ彼が女の子に声を掛けられるのはままあること。今更それにがっつり反応してしまった私も私だけど、後になって改まる真子も大分らしくない。
私も真子も、言うほど張り詰めた毎日は過ごしてないと思うのだけど、それでも無意識に体の内外に色々な蓋をしているのかもしれない。
だとすれば――思い掛けたところでスッパーンと寝室の襖が開かれ、大欠伸ながらに伸びをする真子が現れた。
「んん、ハァ〜……おはようサン、早いなぁ」
「おはよう、つってもほんの10分前くらいだよ」
さよかぁ〜とわしわし頭を掻いた真子は、同じように向かいの椅子の上にしゃがみ座り、ぬぼーっとした顔で煙草を咥える。
「何やめっちゃ寝た気ぃするわ」
「ふふ、即寝だったもんね」
脳裏を掠めた数時間前の光景を打ち払いながら私が笑うと、どっちが先やったかもよう覚えとらんわ、と真子も笑った。
ゆっくりと風呂に浸かって豪勢な夕食を摂り、白熱した卓球の後に再びざっと内湯で体を流して。軽く口を付けた寝酒もそのままに、何とも言えない心地良い疲労感から寝室へ移動。お互い、瞬く間に意識を手放したものと思われる。
「30分ちょっとで朝食か、えらい健康的やなぁ」
居間の時計へと向いた真子の横顔を見つめながら、左手でそっと浴衣の上から右腕を掴む。
“がっ……! ――くそっ……――やめっ……!”
だとすれば――無防備になりがちな今、望まない蓋が開いてしまうこともあるのかもしれない。
最初に私を眠りの縁から引き上げたのは、まだ陽が出る前の明け方、隣で眠る真子のうなされ声だった。
「……吃驚するくらい動かないね」
「……アイツ、フッツーに乗られとるけど重ないんかな」
吸い物、煮物、一夜干しといった定番メニューに、麦とろと五穀米が付いたヘルシーな朝御膳をいただいた後、のんびり支度をした私と真子は事前に話していたワニのいる植物園へ足を運んでみることに。
昨日に引き続き青空が広がり、日差しの降り注ぐ熱帯果樹の温室などを歩いていると南国にいるような錯覚を覚えたり。
途中、水槽内でわっせわっせと動き回っている子ワニを見て「ひよ里やひよ里!」と真子が盛大にツボったりもした(八重歯つながりらしい)。
そうしてワニ園に到着したものの、柵内に十数匹はいるであろう大きなワニたちは、化石のように口を開けたままピクリとも動かない。
並んで柵に手を掛け、とりとめもなく話しながら彼是10分近くじーっと観察しているが、変化と言えば一匹が閉じていた口を、くぱあ、と開けたのみ。
「夏希、アイツの鼻の上あたり見てみや」
「え? あ、傷痕……」
「おんねやろなぁ、ボスが」
真子が指差した一匹には目と鼻の間に大きな傷痕がひとつ。よくよく見ると尻尾のあたりにも無数の小さな傷が見て取れた。柵の中、食の保障された飼いワニ界と言えど、それなりに秩序の厳しい世界なのかもしれない。
「……ほんま、むっちゃ強いだけなんやろな」
「ん?」
「ただ強いだけのヤツがボスんなる世界やろ? 俺は勘弁やなぁ」
柵の上、組んだ腕に顎を乗せてぼやいた真子の台詞は、自分をワニに置き換えての話なのか、人間の世界がそうなったらの話なのか、何なのか。
前者はワニになった時点でその意志は無くなりそうだし、後者は人知を超えた存在でも現れない限りありえないような……。
よく分からんとばかりに覗き込めば、ハンチングの下からチラと向けられた視線とぶつかり、またしても唐突な質問が吹っ飛んできた。
「夏希んとって理想のボス言うたら、やっぱしあの店長サンか?」
「え、ボスってそういう……ん〜どうだろ、何せ怖いからなぁ」
技術やセンス、オーナーポリシー、今までに受けた恩の大きさを思っても、確かに私にとってあの人は特別な人だ。
けれど一方で私のことは存分に見透かしながら、こちらには真意を掴ませず、冷淡な言葉の尻拭いをさせることで人を試すようなところもある。
「……でも尊敬してるし、根本が信用できればそれでいいのかも」
「ふ、そないな感じのこと言う思とったわ。なぁ、覚えとるか? オマエが店長サンと一緒にHoly来よった時んこと」
もちろん覚えている。真子との変な気まずさも、あの日店長から言われた言葉も、パセリの変顔、根暗モテろも。
「あん時な、思ってん。ええ緊張感やなーて。前にちょびっと言うたやろ?」
部下とかおったこともあったて、と続けた真子の視線はワニへと注がれたままながら、見ているようで見ていないといった見覚えのあるそれ――きっと、昨日の露天風呂でも同じ顔をしていたに違いない。
直感的に思った私はまた、額に張り付いた髪を払おうと伸ばしたその腕を、急にガッと掴まれた今朝を思い出して。どこかに小さく潜んでいる不安を刺激されたような思いがして、ちくちくと胸が痛かった。
- 133 -
[*前] | [次#]
しおり
ページ:
章:
Main | Long | Menu