充電と放電 9
真子が眺めていた襖の奥の寝室や内湯、広縁の窓を出てすぐにある立派な露天風呂と順々にひと通り感嘆の声を上げて。
座椅子に腰を据え緑茶を啜り、こんアホみたくデカい灰皿が旅館やんな、などと雑談しながら一服を終えた頃には、空に茜色が差し始めていた。
そこで、夕食までの時間が中途半端だった為、少し早いけれど先に温泉に入っておこうかということに。
「オマ、ご丁寧に全部持ってきたんかいな」
「そりゃー真子の髪の手触りが変わっちゃったらやだし」
浴衣など諸々を手に脱衣所に行き、シャツのボタンを外している真子の隣で、私はポーチからいつものシャンプーとトリートメントを取り出した。
最近は変わってきてるかもしれないが、それでも真子の美髪を旅館アメニティ特有のリスクに晒すなど、私に言わせれば暴挙もいいところ。
「ほーかほーか、やっぱしこん髪がゴワゴワの枝毛まみれなんかなろうモンなら俺は用済みなんのんかー」
「ぷっ、なに言ってんだか。あーでも確実に泣きはするだろうなぁ……」
「ぅえっ!? ほんまかいな」
何やらフテ腐ったようなぶーぶー口調をしてみせた真子に吹き出しつつも、正直想像するだけで悲しくなってくる――と言っても真子の髪は、ツヤと弾力のある非常に丈夫な髪質をしているんだけど。
「しゃーけどそんラインがガタガタなってもうたら俺もショックやなぁ……」
そんなことを思いながら自分も服を脱ぎにかかっていると、半裸で腕組みした真子が複雑そうな面持ちでこっちを見ていた。
「……真子さんそれ、嬉しいけど限りなくプレッシャーです」
「せやかて過保護はアカンねやろぉ? なっちゃん」
ニィーと弧を描いたその口にハァと息を吐きつつも、内心「その容姿で言うか」とツッコミを入れずにいられない。
頭ひとつ抜けるほどではないにしろ普通に長身。線が細く、長い足や指。肌は白くてキメ細かく、髪はツヤツヤのサラッサラ。
それでいてしなやかな筋肉のついた肢体、肩幅、関節などはしっかり男を象ってるというフェロモン過多男。チャームポイントは――猫背。
とうに見慣れたとはいえ、やはり反則に反則を重ねたような無駄のない容姿であることに変わりはなく、溜め息も出るというもの。
「んあ? 何やねん、そんジト目は。ほれとっとと行くで」
「痛っ!」
デニムに手を掛け下ろさんと前屈みになったところ、ハッパを掛けるようにペーン! とお尻を叩かれた。子供か私は。
「アカン! 重要なモン忘れてもうとるやんけ。ちょお取って来るから先入っときや」
内湯の洗い場でひと通りを済ませ、いざ露天へという時になって真子は何やら慌しく部屋へと踵を返して行った。何事かと首を傾げつつも仰せの通りに庭へ出れば、山間地ならではの芯を通るような冷たい空気にぶるりとする。
身を縮こませながら石造りの露天風呂まで行き、ホカホカと白い湯気を立てている湯面を指でちょんちょん、としてみる。やや熱めに感じられた内湯に比べ気持ちぬるめかなというそこへ、そろりと足先から入ってゆっくり身を沈めた。
「んあ゛ぁぁ〜……」
と、思わず漏れ出た声がいい加減ひど過ぎて、流石に今のはないな〜と自省するも、束の間の独り占めとばかりに足を投げ出し至福を堪能。
竹で出来た囲いの外は、豊かな樹木が生い茂げる森林が広がっており、遠くの方でチチチと鳴く鳥の声すら残響を伴って聞こえる。ひんやりした石の縁に頬を当て、足先から上って来る熱との両方を楽しみつつ、さわさわと木々を揺らす風の音に耳を傾けてみる。
随分遠くまで来たような気になるけれど、実際はそう大した距離でもない。自分とは全く違う日常を過ごしている人たちがいる、という当たり前のことすら日々に埋もれて忘れていると、いつも旅先で気付かされる。
「うひゃっ!」
「っくく……ほれ、コレやコレ」
突如うなじに感じた冷たさにビクッと首を竦めると、日本酒の小瓶を手にした真子が悪戯成功とばかりに笑っていた。見事に失念していた私は、おーなるほどと頷きながら差し出された一本を受け取りラベルに目を落とす。
次いで、ちゃぷん、と湯に浸かった真子からはハァ〜というごくごくノーマルな声。真剣にさっきのを聞かれなくて良かったと思う。
「ほなお疲れサン」
「うん、お疲れ」
蓋を開けカチンと乾杯して口を付ければ、ひやりとしたフルーティーな日本酒が喉を滑る。シチュエーションも加わってか何だか物凄く美味しい。
「ほれ、早よおいでや」
「え、こんな広いのに」
「定位置におらんと何や落ち着かれへんねんて」
アパートの狭いバスタブに慣れ過ぎたのか、それこそ泳げる勢いの広さだというのに足の間に来るよう促す真子。何だか勿体ない気がするなぁと笑いつつ、湯の中を縫うようにしゃがみ歩いてそこへ納まれば、すぐにその片腕がゆるやかに腰に回される。
と、耳の上あたりでゴクと喉が鳴り、フーという息。続いてコトン、と石の上に瓶を置いたらしき音がした。
「ほんで? どやってん、夏希から見たオトンの仕事は」
「ん? あー……ふふ、らしいなって思っちゃった」
例えばあの、画像を加工するかのように円形に切り抜いてはめ込んだだけ、といった感じの、まさに『戸』な腰付き障子。そこに飾り障子を使わない装飾っ気のなさが、いかにもらしい。
旅館側の意向もあるにせよ、目に馴染みのあるもの同士をドッキングさせた場合に、それ以上の手を加えないのは父の好みだ。そうしてひとつインパクトを持たせる代わりに、色味や素材の風合いを活かすことで空間バランスを取る。
父が手掛けた実物は殆ど目の当たりにしてないというのに、そんな風に心当たる自分が誇らしくもあり、同時に何だかこそばゆくもあった。
「はー! やっぱし親子やんなぁ。まんま言うたれや、喜ぶで? きっと」
「ん〜……けど面倒臭いんだよなーお父さん有頂天にさせると……」
湯面から少しだけ出ている膝に視線を落としてぼそぼそと零すと、元旦を思い出したのか真子はケタケタと笑い出した。典型的なお調子者タイプだけあって、素面とていくらでもあのテンションになれることもよく知っているのだ、私は。
「しゃーけどアレ、縁起悪いこと言うようやけど言える時に言うといたりや」
ひとしきり笑ってから肩口に顎を乗せてきた真子は、もう片方も腰に回してぎゅっとしながら、いつになくしみじみと言って。
思い直した私が「そうだよね」と小さく頷くと、ハートのピアスが揺れている軟骨に口付け、そのままゆっくりと話し始めた。
「……俺もなぁ、随分前やけどいわゆる日本家屋っちゅー感じんとこに住んでてんわ」
「え、そうなの? 何か意外」
「ふ、まーそうやろな。しゃーからオトンの家もここも、どっか懐かしゅうて何や思い出すねん、色々、色々なぁ……」
竹筒から止め処なくかけ流される源泉。夕陽に照らされた薄山吹色の湯面がゆらゆらと揺れていて、綺麗。
「……そうなんだ」
「しゃーけど仲間がおって、」
視覚と聴覚の情報が交差する頭で、けれど私には到底計り知れないことなんだろう、と漠然と思いながら相槌を返し、その先を待つ。
「夏希もおる今が、一番好きや」
――瞬間、脳が痺れる感覚がした。
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