春の憂鬱 7
――嬉しかった、思ったよりずっと。
天候の変わりやすい時期だけあってか小雨がパラつき始め、ぼちぼちお開きにしようと各自片付けに入った。その途中に至って尚もユルい顔をしていたらしい私は、気持ち悪いんで自重してくれませんか、と松田くんからひと釘頂いた始末。
「そんなに嬉しいものですか?」
「うんそうみたい、ふふふ」
純粋に嬉しい気持ちは勿論のこと、直接聞くことが叶なったという事実に私は相応の安堵も覚えていた。一番触れやすく、それでいて一番触れ難たかった、言い換えるなら『存在証明日』。クリスマスや正月といった皆なに等しく訪れるイベントとは違い、誕生日はその人だけのものだ。
私の見ている真子の背景にどんな事情があるかは未だ分からない。けれど、少なくともひよ里ちゃんを始め、真子にとって大切な人たちに過去その日が祝われてきた事実が覗える。何よりそれが嬉しかった。
いい日だったな、とても。
そんな風に今日を思い返していたら、思い出したように松田くんが言った。
「そういえば週末らしいですよ、張さんの隣入るの。まぁ、また男性みたいですけど」
斉藤さんみたいに仲良く出来る女性だったらいいな、という淡い期待。それが消え去った今、私の関心はごく当たり障りなく『いい人だといいな』程度のものになり。
「原付乗れんねやから大丈夫に決まっとるやろ、大体オマエは夏希に過保護すぎんねん、ハゲ!」
「アホか! そんなん言うとって万一があったらどないすんねん!」
背後から聞こえるハゲハゲいう声に意識が向いていた私は、ただぼんやりと気のない返事をしていた。
「へー……そっか」
「なぁ夏希、アンタ運動神経そこそこにあるやんなっ?」
「オマっ、しゃーからアカン言うてるやろがコラァ!」
程なく、いざ解散という時になって、何か妙に目を輝かせたひよ里ちゃんから突如謎の問いを投げられた。運動神経?
加えて、言うなとでもいうように何か必死でひよ里ちゃんを抱え込む真子に首を傾げつつ、そんな悪い方じゃーないと思うけど? と返せば。
「ウチな、ゴーペッド持ってんねやんか。今度それで遊ぼうや! めっちゃ楽しいで!」
ゴーペッド……って、あのエンジン付きのキックボードか!
「遊ぶ遊ぶ! 乗りたい!」
その楽しそうな代物が頭に思い浮かぶや否やわくわくでいっぱいになり、私のテンションは一気に上昇した。が、そこで何やら「あーあ」とでも言たげな表情で真子を見遣るローズさんに気付く。
「ハァ〜言わんこっちゃないわ……」
つつつ、と視線をその先にスライドさせると、私とは逆に何か脱力した様子の真子が大きな溜め息をひとつ吐く。次いで怪訝に思う私の両肩を掴むなり、いつになく真剣な顔でこう言った。
「オマエ、ほんまぜっっったい手ぇだけは怪我せんようにせえよ」
……なるほど、そういうことか。
そこで漸く先の断片的に聞こえてきた会話と今の状況とが、私の頭で一本の線になった。無論、私が嬉々として食いつくことすら真子は想定済みだったのだろう。
過保護も過保護、俄然ノリ気になってしまった私に「アカン」とは言わないこともそうだけど。
「ひよ里もや。オマエ、ほんま万が一にもそないことなってみ? 即取り上げやで即!」
どうやらそのゴーペッドこそ去年の誕生日にひよ里ちゃんが真子に買って貰った物のよう。しかしこんな風に念を押す真子は、お兄ちゃんとかすっ飛ばしてどう見ても父親だ。
「あぁ!? ウチがおってそんなんなるわけないやろが!」
「しゃーから万が一や言うとんじゃボケ!」
「ハゲが! それが舐めとるっちゅーてんねん! そない万が一なんかあったらなぁ、うどんで首吊って死んだるわ!」
「オマっ……言うたな? ほなぜっっったい括りや! うどんで!」
外野3人で顔を見合わせ『また始まった』という視線を交わし合いつつ、チラリと自分の手を一瞥。私の内側を複雑な思いが満たし始めたところで雨足が強まり、目前で繰り広げられていた兄妹喧嘩も終息した。
恐らく、私が原付でコケた時のことを、店長はかなり大袈裟に真子に話したものと思われる。しかし手首の軽い捻挫とかすり傷程度だったとはいえ、確かに私自身かなり肝を冷やしたのも事実。
そしてこの時、いつもは飄々ユルユルなあの店長に、初めて私は鬼気迫る勢いでこっぴどく叱られた。
“お前は自分を知らなすぎだ! もっと自分の手と頭の価値を自覚しろ!”
全治一週間程度で済んだとはいえ、お客さんやスタッフに迷惑を掛けたことに変わりはなく、ひたすら頭を下げる他なかった。そして、そんな風に怒られたのは後にも先にもこの1回きりながら、今なお鮮明に私の頭に刻まれている。
手と頭――つまり、技術と感性。
個々の髪のクセを活かしたカットに於いては、確かに私にも相応のプライドはある。けれどカットだけが全てではなく、カラーやパーマ、エクステとの兼ね合い、特殊ヘアのデザインなど。個人の好みは勿論のこと、細胞レベルの美容技術の発展、時代と共に変化する流行流動性。
正解はない。
私が過去にいかなる評価をされていようと、持ち得る技術を駆使しようと、全ては目の前のお客さんの満足度に依る。そこへ近付ける為の模索も、自由度の高いコンテストやショーも楽しい。それを評価されるのも嬉しい。
だが正直なところ、『自分の感性の価値』なんていうものは、私にはよく分からない。昔も、今も。
仮にそんなものがあったとしても、絶えずアンテナを張っていなければあっという間にサビてしまうに違いない。
「そういや例のロンドンから帰ってきよった子ぉ、どうなん? オマエから見て成長しててんか?」
頑張ったご褒美に今日は俺が夏希のアタマ洗うたるわ、という嬉しい申し出に甘んじて。ゆっくり、心地良く頭皮を刺激する感触に身を委ねつつ、タオルの下で物思いに耽っていた私は、真子の何気ない問いで我に返った。
「え、あー……うん、めちゃくちゃレベルアップしてた」
「ほーそないにちゃうもんなんやなぁ」
一概にロンドンに行けば確実だとは言えないが、確かに美意識の高い文化が根付いている国ならではの刺激は沢山ある。
何かを追求する上で度々立ちはだかる、固定概念の壁。自分を解放させる意味でも、美容の枠に囚われず色々なものに興味を持ち、触れ、時々は心行くまで遊びなさい、そう私も教わってきた。
いいな、私もまた行きたいな。ひと皮剥けたように活き活きとしている今の彼女を見て、純粋にそう思ったのも事実だけれど。
「しゃーけど俺かてちょっとは上手なったやろ?」
「ふふ、うん気持ち良い」
この冬、漸く彼のお母さんとひと区切りつけ、そうして迎えた愛しく暖かい、やさしい時間――今はまだ、この毎日を大事にしたい。
せやろーと上から降ってくるご機嫌な声音と、耳元でちゃぷちゃぷ鳴る水音に耳を傾けながら今一度、強くそう思った。
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