春の憂鬱 2
瞼の裏がほんのり明るくなった気配に淡く意識が浮上、ゆっくり薄目を開くと真子が出窓に向かって一服しているようだった。
細い腰、白いしなやかな背。そうして視線を上げた先では、柔らかい陽を浴びて目映い金糸がさらさらと風に揺れている。気持ち乗り出した体勢と伏し目がちな目元。ああ桜を見てるんだな、とぼんやり思った。
片手頬杖をついた何となく物憂い横顔は、でもとても綺麗で、立ち入ることが憚られる空気を纏っている。単純に桜に見入っているだけかもしれないが、時々する真子のこの表情が好きだなぁ、と改めて思う。
普段からはおよそ想像しにくい、けれど何か確立された領域を持っている、そう、感じさせる表情。
ニャァ〜オ……
「何やハラでも減ったんかーキス……って、起きとったんかい」
「うん盗み見……〜ぁふ、してた」
「ふ、変態やなぁ。リベンジなら受けて立つで?」
にやりと上がる口端。明け方に最初に見たのもこの口だったな、とぼんやり思いながら首だけでノーを示す。同時に思い出される、昨夜と今朝のふたつの顔。
“……オマエ、ちょい舐められ慣れてもうてへんか”
ムシャクシャしてとか、個人的な独占欲だとか、ただ気に入らないとか。真子には理由の無い怒りが殆ど無い。いや、あるにはあるのだろうけど、少なくとも分かりやすく見せたりはしない。
怖いくらい鋭い上、その実かなり理性的な彼は、私より遥かに『誇り』というものを重んじる。
確かにラウンジの店員同様、あのコンビニの彼にも、私の素性を意識した接客をされている感はあった。やりとり自体はごく普通のそれだが、目は口ほどに物を言うとは良く言ったもの。レジに置いたヘアカタログと私とを交互に一瞥してみたり。
にも拘らずそれに勘付かれてないものと思い込んで、ここぞとばかりに良い人ヅラして近づいた。彼の表情が物語るそんなハラに、ほぼニ人同時に気付き、欲求不満も手伝ってか真子は不愉快を露にしたけれど。
正直、私にとっては結構どうでも良かったりする。
長いこと顔こそ合わせているが、私には『コンビニの兄ちゃん』という認識以上の彼に対する興味はまるで無い。取り立てて不快な思いをした記憶も無ければ、彼に足元を見られて困ることも何も無い。
けれど志が低いと怒られそうだったのと、逆の立場を考えれば理解も出来るだけに口にはしなかった。
そして。
“オマエが足絡めて誘うてきたんやぞ?”
宣言通りと言えばそうだが、真子の言う『寝起き』には、彼のみ喉が渇いて目覚めた時もしっかり含まれた。寝る直前まで散々体を気遣ってくれたかと思えば、そこへ遠慮なくこうした傍若無人っぷりも差し挟んでくる。
けれど実際、私はこの絶妙なバランスによって真子の優し過ぎるほどの優しさに気後れせずにいられている。
「……ほんと、ずるいなぁ」
「くくっ、まぁそう言いなや。俺かてめちゃめちゃ我慢しててんや」
片肘をついて隣に寝そべった真子はゆっくりと私の髪を梳きながら、明らかに『ざまあみい』という顔で言った。
――出来レースの話じゃないんだけどな。
ニ人揃っての朝寝坊をダラダラと満喫してから、ぼちぼち夜にする花見の為の買出しに出ることにした。ちなみにひよ里ちゃんは夕方までバイトで、ローズさんは愛川さんのバイト先である酒屋さんに酒を調達しに行ってくれている。
玄関のドアを開ければ、思わずゆるゆると顔が緩んでしまうようなポカポカ陽気。思いの外メイクが早く終わった私は、踊り場の淡い日向から桜を眺めながら着替えに行った真子を待っていた。
と、すぐ下から何やらシュー、バタン等の物音や、人が出入りしているような気配がするのに気付く。
「下は何や業者かなんか来てんねんか」
私が様子を覗おうとしたところで、お待ちどうサンと出てきた真子も、鍵をかけながら階下のそれに反応を示した。
開襟されたミントグリーンのシャツに茶のパンツ、まだ紐状のタイをその手にひらつかせ、スニーカーをつっかけて。見上げる私の前へ、タン、タン、タン、とゆっくり降りて来るなり、私の右肩を支柱に踵をはめ出した。前屈みになると共にサラリと髪が流れ、目の前にはウォッシュ加工が施された細かいヒッコリー柄。
「いいね、そのハンチング」
「ええやろ、おニューやで」
せっかくのオマエとの休日やしなぁ、と上げられた笑顔が何処となくゴキゲンなものに見え、自然とこちらも笑みが漏れる。
次いでほいと黒のナロータイを渡してきた真子は、ぷちぷちとボタンを留め上げ、やってと言わんばかりに喉を突き出してきた。その子供っぽい甘えたな仕草に呆れ笑いで見遣れば、当人はしれっとどこ吹く風の顔。
襟を立て、そのまま大人しく結ぶ作業に入りつつ、隙を付いてその無防備な白い喉にかぷっと噛み付いてやった。
「……っ!」
思惑通り、息を呑むような声と共にビクリと肩が上がった真子の顔を、ニヤついたしたり顔で仰ぐ。と、ほぉ〜と言うようにその目が細められ、次の瞬間――。
「んがっ!」
……弱点の脇腹をむんずと両手で掴まれ、私の残念すぎる奇声がコンクリートを伝って階段中に反響した。
「どんな人が入るんだろうね〜」
思った通り、長く空室だった真子の部屋の真下にはクリーニングの業者さんが来ていた。その横を過ぎ、ゆっくりと下を目指しながら、まだ見ぬ新しい住人にニ人してあれこれ思いを巡らす。
「せやなぁ、今度もオマエのお客サンなったらええな」
「ぶっ、そんな商売根性ないよ」
「しゃーけどオマエ、まぁた結婚式ある言うて唸っとったやんけ。プライベートの小遣い稼ぎいうたかて繁盛した方がええやん」
確かにここ最近、立て続く色々に凄絶な勢いで貯金が減っている。店絡みの他に、旦那さんの転勤が遠くに決まった友達や、子供が出来て美容師を引退する専門時代の友達と会うなど、様々。
多方面に駆り出されていた昔ならともかく、店で通常業務にあたっているだけの今は、減ることはあっても増えることはそうそう無い。
「ちゅーても俺も言うほど余裕あれへんからなぁ〜……あ、なぁ今夜アレ、松田も誘おかー? 皆なで割ったらちょっとは安っ……」
「……」
最後の踊り場を折れたところで、階下から半目になった松田くんが私たちを見上げていた。
「……随分と楽しそうな算段してるみたいですね」
「ゴ、ゴキゲンヨウやなぁ〜マツダクン」
「ちなみに僕も最近ちょっとFXで失敗しちゃったんで、言うほど余裕ないですよ」
……そういえばお母さんも、保険やら車検やらで金が飛ぶって嘆いてたっけ。
麗らかな春の陽気にふわ〜っと心身が軽くなるように、お金もまたふわ〜っとなくなってしまう時期。春は何かと物入りだ。
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