ふがいがねえ
頬、続いて耳を掠める感触に浅い眠りから引き上げられ、薄っすら瞼を上げた。
瞬間、またも何かに頬を撫でられ、なんぞと反射的に身を引けば――。
動くな、耳元で短く告げられ、状況が飲み込めないまま瞳だけで恐る恐る声を辿る。視界左脇に下がるネクタイ、その斜め上に濃青シャツの袖口、その間に覗く金……何だ、真子か。
未だ朧な頭で認識すると同時に、嗅ぎ慣れた煙草の匂いにゆるゆると気が緩む。途端に今度は何やら左耳上方にひやっとした冷たさを覚え、うひゃっと声を上げて首を竦めた。
「オマっ、耳ぃ千切れても知らんで!?」
「!?」
物騒なワードを条件に急速に覚醒。視界に伸びる腕の隙間からチラと顔を覗えば、何か物申した気な瞳がスッとこちらを見下ろした。
「ええから動くな」
「何して――」
「手ぇは上げんでええわ、アホ」
視線を交わして改めて言われたそれ。ゆっくり両手を挙げながら口を開き掛ければ、呆れ声。
所在ない両手を宙で遊ばせたままじっとしていると、金属質の何かが耳を通る感触。ああピアスか、と漸く頭が理解すると同時に、ほれと横から出された真子の掌には、私がしていた鍵型の軟骨ピアス。
――ん?
見えはしない耳に瞳と意識を集中させ、ならば今ささっているものは何だろうかと思い巡らせる。
「巷で言うお返しっちゅーやつや、昨日渡しそびれてん」
屈めていた腰を降ろした真子に目を向けつつ、呆けたまま親指と人差し指でその物を探ってみるとリング……に、何かのモチーフが下がっている。
そうだ鏡、と思って鞄のファスナーに手を掛けるとハシとそれを掴まれて。
「オマエが持ち歩いとるサイズやと耳しか見えへんやろ。ほれ、ええ加減部屋ぁ入るで」
そのままぐいと引き上げられ立ち上がると、真子の逆の手に下がっている物に目が留まり、え? と思って即座にその顔を覗う。
「俺んとこかてスタンドミラーくらいあるわ」
有名な観光名所のシンボルである大きな提灯、その下にサカサマにぶら下がるスパイダーマン――それは、真子の部屋の鍵。
それを鍵穴に向けんとしている真子を見て、慌てて私はつながれたままの手を、くん、と引いた。
「昨日のっ、昨日私が何つーか変……な空気にしちゃったから!?」
「アホか、別にオマエを上げたないなんか端から思うてへん。ええ機会や思うただけや」
忙しなく早鐘を打つ胸。それに続く異変を感知し、咄嗟に空いたもう片方で真子の手ごとぐっと押さえ込む。
「や、そうそう人には言えない趣味、とかさ……」
「……夏希」
けれどそんな風に間に合わせたところで、誤魔化せるはずもなく。
「……ごめん武者震い、かな」
ずっと、すぐそこにあって、でもどこかで開かないものと思っていた扉。だけど何でだろう、こうしていざ開かれるとなると気持ちが竦む。
思い掛けない動揺に俯きかければ、すぐそこから聞こえたガチャという音。驚愕した私が顔を上げるより早く、左腕を起点にぐんと体が引っ張られた。
「何も無い、オマエが身構えなアカンよなモンは何も無いわ」
思考が追いつく間もなく引き込まれた私は、気付けばぎゅうっと、少し強めに抱き締められていた。肩越しに広がる知らない空間。呆気に取られる中、耳元でする真子の声だけがやけにクリアに届く。
「オマエがあんなん寄越す必要も、無い」
そして力強くはっきりと、言い聞かせるような声色で断言された。
「分かったならパンプス脱ぎや」
「……うん」
震えが止まった代わりに、空間いっぱいに漂う真子の匂いを感じて、私は少しだけ泣きたくなった。
小ぶりで可愛いアンティークなカウチソファを名残惜しく流し見ながら、リビングをズンズン通過。そうして寝室に入って漸く私の手を離した真子は、ベッドにぺいっと帽子を放り、わしわしと頭を掻いて見せた。
「んあー悪い、オマエんとこばっか行っとって散らかり放題やねん」
「……ほんとにレコードだらけだ」
「せやろぉ、とりあえずベッドにでも座っといてや。珈琲淹れて来るわ」
こくんと頷いてその背を見送ってから、箱を含め床に広がるレコードたちの隙間をつま先で辿ってベッドを目指す。シンプルなレザーヘッドのそれに上がり、出窓脇の壁にもたれて膝を抱えた。
その出窓の上にはコンパクトな木製のレコードプレイヤー、枕側の脇に渋い風合いのアルミのスタンド灰皿。コロコロ付きサイドテーブルの上には、アクセサリートレー代わりの灰皿とコースター、中段に小さめのノートPC。
「あはは、ベッドから動かない仕様だ」
メタリックなハンガーラックに掛かったよく目にするコートやネクタイ、備え付けのクローゼット、レコードと帽子が並ぶ棚……。
「……あ」
そうして全体をぐるりと見回した終わりに目に留まった、スタンドミラー。すぐに再びつま先立ちになって近付き、枠に沿ってピンストの施されたそこに映る自分を見つめる。揺れていたのは、トライバル風の小さなハート。
「前にそんなん描いとったやろ」
「!」
不意に背に届いた声にビクッとなってゆっくり振り向くと、開け放されたままだった入り口にニヤリとした真子が立っていた。その右手にはマグふたつ、左手にはケーキらしきが乗った皿。
「オマエが描いとったんは何やもっと複雑やったけどな」
ワンポイントのバリアートを考えていた時、確かに似た感じのを描いたことがある。
再び呆けて立ち尽くす私の前で、足元も見ずに慣れた様子でベッドへと上がり、マグをプレイヤーの脇に置く真子。
「ほれおいでや、なっちゃん」
そうして先ほど私がいた辺りに腰掛けると、ぽんぽんと横を叩かれた。どうにも言葉が見つからないまま、言われた通りにそろそろと後に続けば、その手にある皿をヒョイと差し出される。
「……白イチゴ?」
「せや、バイト中こっそり作ってみてん。悪いけどなぁ、あない高飛車な店よかぜっっったい美味い自信あんで?」
しれっと言ってのけた真子の顔を見、再び目の前のそれをまじまじと見つめる。表面を覆う白い果肉に赤い種のイチゴ。爽やかで、綺麗な色味。
「ずるい、真子……」
だって昨日からずっと、自己嫌悪と不安と、どうしようもない罪悪感でいっぱいで。
「せや、ごっつズルイねん俺。ズルイからずっとオマエに甘えっぱなしやってん」
真似して帰りを待ってみたり。
「……この期に及んで、まーだどないに言うたらカッコつくかなんか考えとるしなぁ」
伝えたいまま形にしてみたり。
03/15 21:18
from:080********
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真子ごめんね
-END-
情けない声を漏らしたり。
「……りが、とう」
「ほんま、しょーもないアホですまん」
――例えばこうしてぎうーと抱きこむ他に、私に何が出来るというんだろう。
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