――火曜日。
夜半過ぎ、脱力のままにベッドに伏した私は、昼頃キスケさんにご飯の催促をされるまでぐうぐう熟睡していた。
のそのそ起き上がってリビングのカーテンをシャッと開け、暖かく春めいてきた日差しを浴びながら、んんーっと伸びひとつ。
昨日の鬱々とした気分も、小骨が喉に刺さったようなチクチクとした胸の痛みも、中々ほど良く薄まっている。
睡眠は偉大だ。
意識的に区切りを付けずとも、一定時間全てを遮断することで頭も体もそこそこ勝手に切り替わってくれる。無論、その機能を活かせる日とそうでない日があるわけだが、どうやら今日は大丈夫そうだ。
コキコキと首を鳴らしながら、やっぱり全ての鍵は良くも悪くもタイミングにあるんだろうなぁ、とぼんやり思う。昨日で言うところの買出しジャンケン、或いはもっと遡って自転車のチェーンか。
少なくともあのタイミングで二人と遭遇していなければ、恐らくは真子とも会わず、結果的に知らずにいたことも多かったに違いない。
「人生って不思議だ……」
瑣末な事象の因果性たるや恐るべしーなどと、私の頭が壮大スケールにまで発展しかかったところで、テーブルの上で携帯が震えた。
階段を降り、秋以来ぶりにその白い鉄扉を開ければ、正面のカウンターにいるバーテンが、ああ、という顔をした。次いでその彼が、いらっしゃいませと口を開き掛けたところに、連れの女の子が驚きの声を上げる。
「流石に空いてますねー!」
昼の電話はこのアシスタントの彼女からで、予約絡みの用件ついでに暇だったら夜遊びませんか、とお誘いを受けた。他でもない『ご近系』を回してくれる彼女だ。
普段遅くにしか来ない私たちにとって、開店して間もなく喧騒に乏しい店内の様相は確かに新鮮だった。
「てか意外と音ボリューム大きかったのな」
そんな様子を、もうひとりの連れであるスタイリストの彼も不思議そうに眺めている。漫画・書籍コレクター兼『画伯』な彼である。
少し前からうちの店では、この遊べるラウンジに射的が導入されたらしいと話題になっていた。そして今日、皆なで行こうと盛り上がった際に一番ノリ気だった彼女が痺れを切らしフライング。暇人ふたりを誘ったという次第だ。
「そういや夏希は何時まで平気なの? ミスターオカッパ何時にご帰還?」
「ミスターオカッパ言うな。てか別に約束してるわけじゃないし」
「あーそっか。いーよなー相手がお隣さんって」
……そうでもないんだこれが。
自分なりに反省し、真子のバイトが終わる時間を見計らって連絡してみたものの、7時を回った今も未だ音沙汰はない。今頃はきっと『集まり』の最中だろうけど。
いつもなら気にしないそれも、このまま私が帰って真子の部屋に電気が点いていたなら、今日に限っては結構などうしようだ。
「こっちなんか店から1時間以上あんじゃん? 仕事明けに彼女んち行く約束してたりすると時々迷っちゃうよ、愛か自分かってな、はは」
「でも行くんだよー、でしょ?」
そう言ってニヤリと横目で見れば、だなぁ〜と苦笑しながら頭を掻く姿が妙に微笑ましくて思わず笑ってしまう。ここのところ店の仲間と遊んでなかったし、いい気分転換になりそうだ。
――と、思っていた。
目当ての射的コーナーは、以前までポーカー卓があったスペースに取って代わったようだった。
仕様は縁日のそれと変わらず、けれど棚に並ぶ景品はジッポやダーツセットがメイン。加えて、一番落としやすい所謂ハズレ商品にコンドームなんかが並んでるあたり、まー大人の遊び場だけあるというか何というか。
それぞれグラスを手に簡単な説明を受け、まず画伯くんのジッポ狙いからスタート。
ご近系ちゃんと私はダーツセットを狙うもそれなりに難しく、アホみたくコンドームばかり溜まってく状況に3人でケラケラ笑っていた、のだが。
「わーまだガラガラだねー!」
……うおっつ、マジかよ。
空いた店内に響いた先の自分たちのような台詞。何となしに声の方を振り返って一瞬で後悔した。バチッと絡んだ視線が鮮明な既視感を伴って重なり、こんなまさかの二連チャンとかいらねーし! と心中で盛大に零す。
と、妙に冷ややかな顔つきになった当人が何やらこちらへ向かって来るじゃないか。
「こんばんはー」
「……こんばんはー」
おーおー随分と嫌われたもんだなぁと、可愛くも分かり易いまでに挑発的な笑顔を目前にして、思う。
「私、今日臨時で中番だったんですけど平子くんもう帰りましたよ? 火曜なのに一緒にいないんですねー」
「あー、休みは一緒にいるとかって特に決めてないんで……」
「へーえ、それで休日までアジールのお仲間と遊んでるんですかー」
……なにおーう!?
うちは仲良しなんだ休日に遊んで何が悪いんだよめんどくせーなー寧ろ申し訳ないかな昨日の今日であなたの顔見るだけでも色々と萎えるっつーのに今更なんだってここまで喧嘩売られにゃならんのだよコンチクショウめ。
「まーそんな感じですー」
斉藤さんの固有技を借りて豪快に心で悪態を吐くも、トラブルを起こすわけにも行かないので努めて気にしてない風を装って笑顔で返す。
「大丈夫なんですかー? 何だかんだ平子くんも調子良いですからねー川村夏希さんみたいな有名な人とちょっと遊んでみたかっただけだったりして?」
カチリ
――頭の中で、スイッチの入った音を聞いた。
「ちょっと! いきなり何なんでっ
――」
いきり立ったご近系の彼女を制し、ああこれか、と急速に冷え行く頭の隅で思った。
「真子のこと、嫌いなんですか?」
「な、何言ってるんですか! 私のこと、川村さんだってどうせ知ってるんでしょっ!?」
淡々と聞いた私の言葉に、チワワちゃんは俄かにその大きな瞳を吊り上げ、怒りと屈辱の入り混じった声を上げた。
「まぁ多少なりは。だけど遠回しに真子を侮辱してるように聞こえたんで、嫌いなのかなって思って」
「侮辱なんてっ
――」
「してないと思います? 少なくとも私の知る真子は、名落ちした美容師バリューに食いつくようなやっすい男じゃないですよ」
“俺かてオマエんことであることないこと言われるんはええ気なんかせえへんわ!”
例えば、私の体の良いカモにされてるだとか、もしくは逆に遊ばれてるだとか。そんな類のことを、或いはさも心配気に、真子もきっと散々言われたに違いない。
あんな風にヤケ酒に走るほどの怒りを堪えて帰ってきた真子は、その相手に何と返したのだろう。頭の良い真子は、何かしらその場をやり過ごす弁術を持ってそうではあるけれど。
にしても、私と違い、彼の立場で露骨に私を庇いなんかしたら火に油になることは想像に容易い。真子が自身で決めたこととは言え、こんな不快な思いを一体どれほどさせたのか。締めつけられる胸の痛みに、知らず両の拳に力が篭る。
誰かを大事に想うことと、実際に大事にするということの間には、こんなにも大きな壁がある。