見たかねえ
渡された万券をポケットの中でいじりつつ、やや重い足取りで駅前のファーストフード店を目指す。柔らかな日差しが降り注ぐ午後、表通りに並ぶ白木蓮を仰ぎ見ればチラホラ蕾が覗えた。
けれど吹き抜ける風は未だ冷たく、スタンドカラーコートのボタンをぴっちり上まで留めても尚、体のそこかしこがゾクゾクする。
それに続けて再びじわりと鈍い痛みが下腹部を襲い、出掛けにニヤリとしながら店長に言われた台詞が頭に過ぎった。
“今日はとびっきりツイてねぇらしいな、夏希”
……いやいやいや。
ちょっとばかり体のだるい日に、たまたま通勤途中にチャリのチェーンが外れて遅刻しかけ、更にたまたま例のイケメンモデルが異例のスパンで予約も無しに現れて。
今日も素敵にぐるぐるさせられつつも、何とか午前のピークを乗り切ったところで、少し遅めになった昼飯の買出しジャンケンに、たまたま負けただけさね。
今朝、布団を抱き枕のように抱え込んだ真子が「アホ、行かせへんわ」と寝惚けて言ったのには笑ったし、天気も良好。チェーンを直すのに手間取ってた時だって、通り掛かった親切なスーツのお兄さんが手伝ってくれた。
好きな仕事で生活でき、キスケさんも元気。店も順調で皆なの仲も良い。真子飯は美味く、張さんの古琴の音も綺麗。斉藤さんは元気にノンストップ。ひよ里ちゃんは地団駄を踏み、涼しい顔で松田くんが意地悪をする。
これといって小躍りするような出来事もなければ、かといって激しく気落ちするような事件もない。けれど平穏で愛おしい毎日。うん何の問題もない、と思い直して顔を上げたところで待っていた信号が青に変わった。
――時だった。
「……!」
信号先の通りに見慣れたハンチングに金髪。隣には例のショートウルフの彼女。
その手には、先日真子とも話題にした、この近くにある少し高級な洋菓子屋さんの箱。白イチゴとやらをふんだんに使った期間限定のケーキが、ワンホール万超えの強気な値段らしいよ、と。
“じゃー明日はHoly夜やってないんだ”
“あーせやねん。しゃーから店長サンにも言うといたってや。月曜と土曜ん夜は来ること多いやろ、あの人”
ディナータイムをお休みにし、少し早い時間からのチーフの誕生日パーティー、という名目の飲み会。それに備え、今日が休みのメンツで昼過ぎからプレゼントとケーキを買いに行かなきゃならない。
よりによって何で月曜やねん、とフテり気味の真子はえらく面倒臭がっていた。
そうして頭では見た瞬間すべての合点がいったにも拘らず、驚くことに私の目は、体は、その光景を――拒絶していた。
「っん、ハァァー……」
ひりつく喉に口内にあるだけの水分をゴクンと流し込み、不純物を出すかのように大きく息を吐く。
ドッドッ、ドッ、ドッ……
動悸が静まるにつれ徐々にクリアになった頭が、己の取った行動を冷静に呼び覚ます。渡るはずだった横断歩道から踵を返し、早足で人波を逆行。小奇麗な雑貨屋がまばらにある、静かな細路地の一角で呼吸を整えている、自分。
……あ? ちょっと待て、何で私が逃げるんだ!?
「げー最悪だーー!」
テナント募集の貼り紙がされたシャッターの前で、ひーっと心で悲鳴を上げながらリアルに頭を抱えてしゃがみ込む。今までにもHolyの飲み会の話は真子から何度も聞いているが、ただの一度もこんな風に心が波立ったことは無かった。無論、彼の口から彼女の名が発されようとも。
私自身、店長や男友達なんかと食事することがあるし、そもそも互いに違う行動圏を持っていることなど百も承知。部屋が隣で仕事場も近く、更にはこうした関係だからといって間違っても真子は私の所有物などではない。
今日の買い物へは、顔は私も知っている2人に彼女を合わせた4人で行くと聞かされた。プレゼント組とケーキ組に分かれ、後に合流するんだろうなど、あの光景を裏付けるだけの理由は想像に容易い。
彼女の存在が、少なからず真子と気まずくなった時の取っ掛かりだったにしろ、優に3ヶ月以上が経った今はあの時とは違う。
「……参った、平気じゃねーわ」
それでも事実、この眼に映して平静ではいられなかった自分。どんなに他に原因を求めても、自ら取った行動が端からそれを否定し、残ったひとつは否応なく突きつけられる。
ああ、そうだった。
平穏な日常に甘んじ過ぎて失念していた。誰かを好きになることには、自分の嫌な部分すら容赦なく思い知らされるという厄介が、漏れなく付いてくるんだった。
元より人のそれも苦手だけれど、自分が抱えるのはもっと苦手。まざまざと思い出される感覚。いくつになろうとこの苦々しい心地に変わりはないらしい。
コーヒーを頼んで、有無を言わさずミルク・砂糖・マドラーを乗っけられた時の「要らないのに」な気分と、ちょっと似てる。
だが一緒に住んでいると逃げ場も無いそれも、今のように基本それぞれが自分の空間を持っている状態とあらば、自分の中だけでやり過ごすことも出来る。
……それ故に踏み込みきれない部分も、あるわけだけれど。
「ん゛〜〜〜っ」
ええい気にすんな! 忘れろ忘れろ!
自分に言い聞かすようぺちぺち額を叩き、フンと立ち上がってハンバーガーふたつ食ってやる! と意味不明な決意をする。
どのみち真子は今日は遅くなるだろうし私もアケミさんの店へ飲みにでも行こうか。そうだ、それで「ダッサイ女ねぇー!」とか、あーだこーだ盛大に喝を入れて貰おう。
これ以上ない素敵な他力本願を思い付いた私は、先の表通りへは戻らず、別の道から迂回して目的地へ向かった。
――もう一度そこを通る気にはなれなかった自分に、苦笑しながら。
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