重ねる日々 2
…………困った。
「ト、トイレ行きたい、なぁ〜」
「何やオマエ、そないに俺と離れたいんか、お?」
「うっ……」
腕を掴まれたままにずいっと顔を近付けられ、据わり切った薄い瞳が至近距離から容赦なく私を射抜く。その妙に色っぽい眼差しに二の句も告げられずタジタジしていると、真子の唇からアルコールの匂いがほんのり漂い、追い討ちの如く私に眩暈を覚えさせた。
チラとテーブルの上を見遣れば、カセットコンロ、春菊、椎茸、ネギ、焼き豆腐、しらたき、卵、などの入ったザルやボール。
まさに、今日はすき焼きですよー! と準備の整った脇に、ずらずらずらーっと並んでいるビールの空き缶、そして残すは一合程度の一升瓶。
色々おかしいこの状況の中、肉という主役を手にしたひよ里ちゃんの来る時間が迫っている今、私の心中はハラハラ。しかしながら元凶である絶賛悪酔い中の真子は、そんなことはどこ吹く風で尚も酒を煽っている。
この状態を見られてはシラフになった真子は絶対凹むだろうと思い、『ポン酒と水をすり替えてしまえ大作戦』を決行すべく何度も立ち上がりかけるも、この有様。
惚れた弱みというやつか、真子の妖艶ビームの前に成す術も無い私は、いよいよ途方に暮れるばかり。
ピンポーン!
……ええい、もう知らんがな! 私の尿意もリアルに限界だ!
いっそひよ里ちゃんに助けを求めてしまおう! と半ばヤケになった私は、子機を手に取り鍵の開いている旨を告げた。
「すっきやき〜、すっきやき〜……っ!?」
ルンルンでリビングに現れたひよ里ちゃんと、背中からでろ〜んと私の肩に顎を乗せている真子の虚ろな視線が、絡まった。
バサッ
と無言でスーパーの袋を落としたひよ里ちゃんの顔は、何か見てはいけない物を目の当たりにしたようなぎょっとしたもので。
今にも踵を返されそうな空気を感知した私は慌てて『後生だから』さながらに声を張った。
「ひ、ひよ里さま〜トイレ行きたいのに真子が行くなって妖艶に脅迫してきます〜!」
と、一瞬ハッとした顔をした彼女は、でもすぐに眉間にぎゅーっと皺を寄せて真子に一直線、のしのし大手を振って向かって行った。
「おぉ、ひよるりぃ〜」
ろれつの回っていない真子の前に、ざん! という効果音を思わせる様子で仁王立ちしたひよ里ちゃんは、すーっと息を吸いながら両腕をめいっぱい開き、
びたーん!
「痛ぁっ!」
と、勢いよく思いっきり真子の両頬を挟んだ挙句――。
「肉食う前に何ベロベロなってんねん、ハゲが!」
その至近距離から思いっきりゴン! と頭突きすると共に、何か、私の訴えとは些かずれた切れっぷりを見せた。
が、とにかくいっぱいいっぱいだった(膀胱的な意味で)私は、許せ真子! と心で盛大に謝りつつ、これを機に一目散にトイレへと駆け込んだのだった。
キスやセックスをする関係になっても、やはり真子と毎日会ってはないし、二人でいる時の空気にも大きな変化は無かった。けれど平凡な日常にあって、それでいて心の有りようがまるで違う今は、今までのどんな時よりも真子の存在を近くに感じられている。
私と同じで口は悪いし、あまり明確に口にはしないけれど、真子はとにかく優しかった。
「今日こそオマエに勝ったるで」
本当はめちゃくちゃセックスが上手いくせに、こんな言い方で以って2回に1回は私にマウントを取らせてくれる。それは、同じサドっ気を持った者同士が楽しめるように、という思いやりに他ならないが、そうは口にしないのが真子で。
知り合った当初、女慣れしてそうなのに変な卑らしさが無いと感じたのは、まさにこういうとこだよなぁ、と日々実感させられる。
体毛も薄く、私なんかより遥かに綺麗な白い肌、均整の取れた細マッチョ。うっとりする体つき。どれだけの女性がその体を拝んだのかと思えば、多少なり複雑ではある。しかしそれ以上に、その集大成を私が堪能してるって凄い贅沢だぁ! と思って止まない。
いつも飄々としていて、分かりにくいくらい懐の深さを感じさせる余裕に満ちている、真子。けれど、その分かりにくさ故に分かってしまうこともある。
こちらの休みである今日、『クサクサしてますオーラ』を全身に纏いバイトから帰って来た真子は顔を見るなり益々不機嫌を濃くし、無言で私をぎゅうぎゅう抱き込んだ。
正月休みの最終日、今後、誰に何を言われようと私とのことを隠したり、誤魔化す気はないと、真子は淡々と淀みなく言った。つまりそれは、変わらず『川村夏希』に関わる者というスタンスを堂々貫く、ということ。
私が元彼をそそのかしたと思っている人も少なくない中、友達よりも更に波紋を生みそうな間柄となった今、純粋に真子の気持ちが嬉しいながらも、私の胸中はひどく複雑だった。
――けれど。
「夏希を好きっちゅう気持ちに嘘ついてまで、俺が世間に辻褄合わせなアカン理由なんか無いやろ」
彼の言い分が尤もだったのは勿論、同じく要領の良し悪しの前に曲げたくないことがある私には、ただ「分かった」と返すことしか出来なかった。
そんな風に言い切る真子は、下らない揶揄や挑発を難なく受け流せるくらいには冷静で、怜悧で、強い。
“オマエかて色んな時あるんが普通やろ”
だがそんな真子にとて、体調だったり、天気だったり、気分といったバイオリズムの波に則し、当たり前に色んな日があって。
例えば同じ人に同じことを言われるでも、右の耳から左の耳へとすり抜けさせることが出来る日もあれば、その胸でダイレクトに受け止めてしまう日だってある。
内容こそ分からないが、恐らくは私絡みの心無い愚弄に腹が立ったものの、店や私を思ってその場を堪え、持て余し、帰ってきて。
私に会って苛立ちがぶり返すも、何も言わずヤケ酒に走るくらいには真子は優しい。だけどそれに勘付いたところで当の私が「ごめん」などと口にしては、真子の気持ちそのものを踏みにじってしまうから。
「好きだよ、凄く」
上手な言葉を紡げない私には、あまりに難易度の高い状況。言葉にし得ない気持ちの全てを込め、やさぐれモードの真子にせめてとばかりにこう告げたところ――。
冒頭に戻る、のだ。
けれどベロベロながらも何かは感じてくれたのか、翌日、仕事を終えた私が店から出ると、目の前のガードレールに腰掛け煙草を吹かしている真子がいた。
「俺、昨日1枚も肉食うてへん」
そう零した左手にはネギがコンニチハしているスーパーの袋。二夜続きですき焼きを食べるはめになったその経緯の全てが愛しく、幸せだった。
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