Memo
目前のローテーブルに置かれた白い封筒。表から見ても、剥離紙が付いたまま折り返されたフラップが不自然に浮いてるのがわかる。
中身に意識を向けつつ、勘付かれないよう正面で通話中の彼をちらりと盗み見た。
――いよいよ妙なことになった。
「何かあったのかい?」
心配を滲ませた声がスカスカなこの部屋に響く。そもそもここは何なのだろう? 家具といえるものは彼と向き合う一対のソファセットのみ。
微妙に鼻につく塗料の匂い。真っ白な天井。壁や床、窓、照明等がビニールシートで養生されてることから内装工事中ということはわかる。
場所は繁華街の雑居ビルの一室。お礼がしたいと言われるまま付いてきたんだからそれも明白。
ただ、私としては当然のように喫茶店あたりを想定してたわけで――
「……そうか、残念だよ」
こんな妙な場所で、彼は今、現役女子大生に別れ話を切り出されている。と言っても仕向けたのは彼自身。
そして私はこの悪事に加担した云わば共犯者。ただの同僚に過ぎないこの藍染さんと、先ほど私は腕を組み雑踏を歩いた。
ある女性にしつこくされ困っている。彼女が働く花屋の前を一緒に歩いてほしい。誓って君に迷惑は掛けないし、お礼もさせてもらう。
そういう話だった、のだが。
「わかった。将来を大切に」
悲哀なトーンの声とは裏腹に薄っすら上がった口角。一見したそれは嘲笑じみた表情だけど、見ようによっては――恍惚。
薄ら寒い心地を覚えながらも、なるほどこれがこの人の素か……と、どこか納得のいってる自分がいた。
「申し訳ないが、君が思うような失態は演じていないよ」
話が違うどころか、よりにもよって女子大生。思わずじっとり見てしまっていたらしい。通話を終え、こちらの視線に気付いた彼が不敵な笑顔で否定する。もう、猫を被る気もないらしい。
まあそれはいいとしても、何でまたこんな周りくどいことを。直接傷つけて悪者になるか、間接的に悪者になるか。そこは潔く前者では?
何よりこの謎空間へ来る途中、事後報告的に真実を知らされた意図もわからない。嘘のまま通しても何ら問題はなかったはず。わからないことだらけ。
「これ、いらないんで代わりに説明してもらえませんか?」
言いながら目の前の封筒を突き返そうと人差し指と中指で触れ、一瞬固まった。思った以上に分厚い。ますます説明がほしい。
だけど果たして、それを聞いて私は大丈夫だろうか。知らぬが仏の可能性へ加速する思考。冷や汗が噴き出そう。
とはいえ出した指を引っ込めるわけにもいかず、どうにかすすすと前に押し出しソファの背に寄り掛かった。得体の知れない心許なさに、背もたれという支えが少しだけ安心をくれる。
「……ふ、誓って君に迷惑は掛けないし、お礼もさせてもらう、そう僕は言ったはずだよ」
私の動揺を見抜いてか、指先で眼鏡の位置を正した藍染さんが楽しげに言う。
というより、そもそもさっきの通話後からやけに上機嫌……に見える。思惑通りに彼女から切り出してもらってご満悦なんだろうか。
「前提からして違ったじゃないですか……」
「それについてはすまなかった。けれどさっきの言葉に嘘はないよ。それは君への餞別だと思って受け取ってほしい」
「いや普通にこんな大金受け取れませんて。でも、やっぱり人事を見越して私に頼んできたんですね」
「そうでなければ君も引き受けはしなかっただろう?」
ぐっと言葉に詰まってしまった。大正解すぎて。
『誓って』なんて、何の根拠もない言葉を真に受けられるほど彼と私は親しくない。当たり障りのない距離の同僚。それ以上でも以下でもない。
お礼にしたって夕飯をご馳走になる程度の想定。こちらの事情として「まあいいですよ」と言える状況だっただけの話。
「更に言えば善意で引き受けたわけでもないだろう。さしずめ僕への好奇心、といったところかな。君はいつも、どこか胡乱げな目で僕を見ていたね」
「……まぁ、仰る通りです」
「僕としても、そこは君の期待に応えているつもりだよ」
そう、善意なんてもんじゃない。
完璧超人なこの人に私は疑念を持っていた。仕事、人付き合い、立ち居振る舞い、気性、知性、容姿。映る全てが良い具合にスマートすぎて、捻くれた私にはかえって嘘くさく思えていたのだ。
欠点のない人間がいるはずない。絶対何かある。特殊性癖とか。好き勝手勘繰っていたところへ女性絡みの俗っぽい話なんか聞かされたものだから、ちょっと乗ってみたくなった。
最後に意外な一面のひとつでも見られたら面白そう。聞いた限り過度なストーキングを受けてるというほどではなさそうだし、来月には私は海の向こう。せいぜい出発の日まで身バレには気を付けよう程度の気持ちだった。
けれどそれが付き合ってる彼女、しかも相手がうら若き女子大生だったと知った今は少々心が痛む。もちろん花屋さんなら雑に対処していいということではないけれど、恋人と一方通行では話も違ってくる。多分。
「では聞きますけど……要するに彼女を試したかったとか、そんな感じなんですか?」
浮気現場を見せつけても縋ってくるかどうか? でも、だとすると別れ話を終えた彼の満足げな様子が腑に落ちない。じゃあ何の為に?
そもそも恋愛沙汰は得意じゃないんだよな、なんて頭を捻っていると、ふっと忍び笑いが聞こえて視線を戻す。
いつの間にか足を組み、肘掛けに肘を突き、こめかみに拳を当て不遜な笑みを浮かべる姿は何というか……ものすごい俺様感。そして妙に妖艶。
「半分正解で半分不正解というべきか。そもそもから、とでも言えばわかりやすいだろうか」
「そもそもから? 彼女の存在自体が遊び?」
「君は血縁関係にない個人間において、その価値観や意思、理念といったものはどの程度影響すると思う」
「はい?」
「その範囲は? 友人、恋人、同僚、上司、部下、教師、生徒、社会人、学生、年齢差、性差など、関係性による浸透の度合いは?」
「……」
前触れもなく全開にされた異様さに押し黙るしかなかったが、彼が言わんとすることは薄っすらわかってきた。つまり、人間マーケティングだ。そもそもからとはそういうことで、明け透けに言ってしまえば――被験者。
「……それで、成果は得られたんですか」
「思った通り、君は理解が速くて助かるね。父性に弱い未熟な大学生の彼女と恋愛関係を結んだ場合に、社会人、年上、概念として大人の男である僕はどこまでロールモデル足り得るか。なかなか有意義な時間だったよ」
ただの悪趣味か、それとも何か目的でもあるのか。ご丁寧に話してくれるあたり、現在進行形で私も何かしら反応を探る対象なのかもしれない。
何かあると訝しんでこそいたけど、色々とぶっ飛んだ内容すぎて頭がついていかない。
「ちょうど、若く柔軟なサンプルが欲しかったところでね」
いささか疲れた心持ちの私をよそに、彼は今日に至る彼女との経緯を話してくれていた。いつにも増して饒舌。
時折何かを思い返すように目を瞑る様子などはどこか陶酔的で、それこそ『恋をした夢のような時間』でも語られてるのかと勘違いしそうになる。
しかし目の前で展開されてるのは、いかにして彼女を懐柔し、そして突き放したかという話。しかも口ぶりからするに、あくまで藍染さんが彼女を選んだということらしい。用意周到に。
「随分と冷ややかな視線をもらっているが、目的が別にあっただけで彼女のことは大事にしていたよ。『理想的な年上彼氏』らしく、ね。それとも君は、感情がなければ恋愛は出来ないとでも?」
「……俳優さんにでもなればいいのにと思ってるだけです」
彼の非道徳はさて置いても、これは本音だ。何故なら今さっき身をもって体験したから。
本当言うとゾッとした。遠目からそれらしく見えるようにするだけなら腕を組み笑顔で話す程度で充分。にも拘らず彼は、私へ注ぐ眼差しに『愛情らしき』をしっかりと乗せてきたのだ。無いはずの感情を引きずり出され、この人に愛される幸せみたいなものを本気で錯覚しそうなほどに。
それゆえ倫理的にどうこう以前の話として、彼ならそれが出来ると確信させられた気分。才能、と呼べるかも。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「皮肉です、ただの」
呆れと脱力と正体不明の敗北感。
ため息混じりに告げた正面でゆったりと微笑んだ藍染さんが静かに足を組み替える。ごく控えめに軋む革の音。こんな度外れたカミングアウトをしていて尚、スマートな所作が無性に腹立たしい。育ちがいいんだろうか。
もっとこう、生理的嫌悪を覚えるような下卑た素振りでも見せてくれればクズのひと言で片付けられて釣り合いも取れるのに。
「さて話を戻そう。近頃の彼女は『何者かにならなければならない』といった強迫観念に駆られていた。月並みな話だけれどね」
続いて聞かされたのは、進路に悩む女子大生に社会人の彼氏が上から説き聞かせたらどんな反応をしたか、という話だった。
ただし内容はいわゆる一般論で、特別偏った考えというわけでもない――いや、むしろそれこそが洗脳か。
所詮は数の話であって何かが約束されるわけじゃない。それでも、そこから外れることは堕落だと断じられるのは呪いに等しい気もする。
でも、それならもっと言い方、というか……。
「今いちわからないんですが一般論を植え付けたかったわけではない……んですか?」
「無論、君のことを想ってと寄り添えば素直に聞き入れることもわかっていたよ。では仮に僕がそう選択していた場合、彼女は君との光景をどう受け取っただろうか」
「……信じなかった、かもしれないですね」
「ご名答。得てして人は見たいものしか見ない、見たいようにしか見えないものだ。事実、彼女は君とのことを確かめようともしなかった」
なるほど、つまりそこも含めて計算。事前に反発心を抱かせ信頼を揺らがせておいたというわけか。
「完全に筋書き通りなんですね……」
「既に彼女から得たいものは『最後』の出方だけだったのでね」
用済みだと言わんばかりに軽く肩を竦める素振りからも、彼に良心の呵責などといったものは一切窺えない。
目的は違ったにせよ、愛着や情みたいなものすら持たなかったんだろうか。可愛いとか、いじらしいとか。さっきの言い様だと彼女の成人後はすることだってしてるだろうし。
或いはそういう時期もあって、今やそれも消え失せただけとか? ……いや、そう思いたいだけかもしれない。私が。
予定外な片棒を担がされ、せめてそうだったらと私の中の罪悪感が思い込みたがってるだけだ。どうであれ結果は変わりやしない。
「それにしても『僕のような大人にはなれないみたい』か。良い引き下がり方だ。何故、あれは誰、と喚くこともしない」
「……何でですかね?」
「僕相手にみっともない子供のような真似はしたくないと思ったのだろう」
「何故したくないと思ったんでしょうか」
「そういった振る舞い方を含め、彼女は僕の影響を受けているからね」
自身の『仕込み』の完成度にうっとりとしたような表情。俄かに込み上げる笑いをギリギリのとこで堪えた。
人を食ったように見透かし操りながら、そんなこともわからないなんて。意外と抜けてるとこもあるんだな。
見たいものしか見ない、見たいようにしか見えない、か――
「色々聞かせて下さりありがとうございました。ここで何しようとしてるのかわかりませんけど、じゃあこれは『サンプル提供、兼口止め料』として頂いておきます」
「こちらこそありがとう。向こうでの君の健闘を祈っているよ」
恐らく藍染さんにとって『私』の正解はこうだろうと判断した私は、封筒を手に立ち上がり、にこやかに見送られ部屋を出た。
階段を下り通りに出ると、さっきまでは微塵も感じられなかった喧騒が戻ってくる。やはり防音。それも非常階段脇の角部屋。
視線だけで見上げ、十中八九悪だくみだろうと予感するも私の知ったことではないし、いささか分析不足ではと言いたい気持ちもあったけど、彼にはきっと余計なお世話だろう。
――この人には嫌われたくない、なんて。
いつか、彼がそんな人と出会う日も来るだろうか。正直全く想像はできないけど、来たらいいのに。
それにしても予想以上の変人だったなと苦笑しつつ、何だかんだ好奇心が満たされた私は軽快にヒールを鳴らし雑踏に紛れた。
−END−
[18/8/8 Wed 20:55]
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