Memo
シンと静まり返った空間に響く、キーボードの無機質な音。自分の生み出しているカタカタカタ、というそれが今夜はやけに耳につく。
思うが早いかまた、ハァ、という空虚な溜め息が斜め向かいのデスクに落とされる。
……勘弁してほしいなぁ。
モニタから視線を外し、ちろ、と恨めし気に見遣る。青白く、鬱々とした顔。長く垂れ下がった前髪の作る翳がやたらと悲壮感を増している。
見るからに心ここに在らずといったご様子。瞬時にこちらまでげっそりしそうになり、ゆるく頭を振って意識を目の前の作業に戻す、が――
カタカタカタ、ハァ……カタカタ、ハァ……
という具合に、容赦なく私の集中力を削いでくれる。尚もぼんやり資料をパラ見している彼。わざとではないと分かるだけに始末が悪い。
薄暗い夜のオフィス。どんよりと滞留した空気を露にするかのように、蛍光灯は私と彼のいる一角のみを照らしている。いよいよ限界を感じ、ひと声掛けた。
「……コーヒー。淹れてくるけど、吉良くんも飲みますか?」
同期だった名残りを滲ませた妙な丁寧語。上司と部下になっても時間外くらいは、という彼の要望に半分だけ応えたそれを、昨日もいっぱい使ったな、と片隅で思う。
私が立ち上がったことにすら気付かなかったのか、吉良くんはほんの少し視線を彷徨わせてから私を見上げ、ありがとう、と儚げに微笑んだ。
痛々しいその表情から、この場の淀んだ空気から、逃げるように給湯室へ向かう途中、私は無意識に小さく零していた。
「何とかして下さいよ、市丸さん……」
明かりを点け、電源の抜かれたポットとケトル、どっちが早いかと迷った挙句にケトルを手に蛇口を捻った。ひと息つこうと逃げてきたは良いけれど、やはり1月夜のここはどうにも寒い。寒すぎる。
たっぷり水を入れ、強火にかける。すかさず手をかざし暖を取れば、二酸化炭素の充満する部屋と寒さ、その両方から解放された安堵からほうっと息が漏れた。
「なんなんだろう、ほんと……」
心の中心に彼を置き、穏やかに時を重ねる筈の私の日常。ここのところ何かがおかしい――いや、そもそも今年は初めからおかしかった。
元旦。実家の受話器越しに届いた、来年は二人そろって帰国できるよ、という嬉しそうな声。呆然と、あの儀式をしなかったからだ、と思った。
現実味を帯びてきてからはただただ、どうしよう、が頭を巡った。
完全に兄になってしまう日がやってくる。わざと止めていた私の時間が動き出すまで364日。いざそうなると全然、全然大丈夫じゃない。この想いの行き場なんてどこにもないのに――
“キミかていつかは誰かの一番にならな”
放心状態のまま自宅に戻って、ふと思った。市丸さんはあの日、何かを予見していたのかもしれない。あれは、そういう意味だったのだろうか。
シュンシュン音を立て始めたケトルに思考を掬われ、吉良くんと私、それぞれのマグにインスタントコーヒーを入れる。血色の悪い顔を思い出し、片方には独断でミルクも投入。
来客用を除き、ひとり当たり月300円でめいめい持参した紅茶やコーヒーを共有。コーヒーサーバーなんてものがあった時代もあったらしいが、私は経費削減が当たり前の今しか知らない。
そういえば市丸さんが好んで持ってくるのは、高級品として名高い玉露だった。そして、あの人に貰ったという渋くて素敵な湯呑みを手に席を外すと、大抵がなかなか戻ってこない。無論、給湯室にもいない。
けれど年が明け、市丸さんのいないオフィスでも各自の仕事は滞りなく滑り出し、順調そのもの。若くしてマネージャー職に就いたという市丸さんの抜かりなさを物語っている。強いて挙げるなら、女子社員の沈んだ声を多く耳にするようになった程度。
だけど胸中がおおしけの私は自分の仕事をこなすだけで精一杯。本当に、それどころではないんだけど――
“市丸マネージャーの携帯が繋がらないんだ!”
まさか、と思った。まさかあの人のみならず、サブの吉良くんまでもが知らされていなかったとは。昨夜の新年会、泥酔した彼に泣きつかれた私は、彼とは違う理由で驚きを隠せないでいた。
“退職願い? ふ、家業を継ぐいう王道で出したったわ”
そう聞いていた。でもひょっとして本当の別れを告げられたのは、私だけ? ――いや違う、誰にも告げなかったんだ。
終業まで延々パソコンに向かう私は、市丸さんは勿論、吉良くんとすら勤務中に話すのは一言二言。故に尚更、第三者の目や言葉を介さない私の部屋で二人いた時間はどこまでも現実味を欠いていた。
無いようで在る、在るようで無い。市丸さんにとってあの日のさよならも、多分そんなもの。或いは言った自分がどんな気分になるか試したかっただけ。そう思ったら凄くしっくりきた。きたけれど――
更には市丸さんの時と同じに、一次会で退散すべく止めたタクシーに潰れた吉良くんをむりくり押し込められるとは。だって、家も知らない。
仕方なく運転手さんに手伝って貰って部屋まで運ぶ途中、その後も、夢現に市丸さんの名をぼやいていた吉良くん。なら必死こいて探し出し、あの人もろとも着いて行ってしまえよ、と私がゴチたとも知らず、朝は大絶叫で起こしてくれた。
全く、随分と厄介なものを残してくれたもんだ。今となっては吉良くんの気鬱な顔を見るたび、これまで意識しなかった日中にまで市丸さんを思い出す。思い出して、内心で悪態を零すばかり。
そうして騒がしい日常を送っている内に、いつしか彼に対する私の想いも消えてしまうのだろうか。それが何より嫌だった。他の誰といる時よりもベッドでひとりぐるんと丸まって彼を想う時が一番淋しくて、一番幸福だった。
吉良くんも早くそうなればいい。そうなって、五課の雛森さんと幸せになれば――あれ、おかしい。
それじゃ市丸さんが私に言ったことと変わらない? そう思った直後に目の前のケトルがピューと鳴き始めた。
ともあれあの、げっそりした吉良くんの顔がよろしくないことだけは確かだ。うんうんとひとり頷き、戸棚から小さなパッケージを取り出す。湯を注ぎ、マグふたつを手に二酸化炭素室へ戻る。
「ああ、ありがとう」
「いいえー」
未だ脆い笑顔を見せる彼にマグを手渡した私は、素知らぬ顔でデスクに戻り、マグに口を付けるふりでじっと観察。ずずっ、と彼のコーヒーを啜る音だけが辺りに響く。
「……甘っ! ちょ、めちゃくちゃ甘いけど!?」
「私のすっぴんを見た罰です」
「えっ……や、それはその……」
「心配しなくても誰にも言いませんよ。もちろん――」
“十課の、松本さんにも”
“ひや〜こらまたえらい弱味を握られてしもたもんやなぁ……”
−END−
[11/1/14 Fri 22:40]
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