Memo
やっぱり来た。来てしまったか、この人は。
視界斜め上、私の行く手を阻むかのように階段の中ごろに座り込んでいるその人を、眉をひそめてじっと見遣る。
「そないな顔しんといて」
何も発することなく、ただただ立ち尽くしている私にヘラリとひとつ笑って、ゆっくりと立ち上がる彼。その狐目に映るそないな顔、とはどんな顔か。呆れを含んだ冷ややかなそれなら、私の胸中とは概ね一致する。
くっきりと形を成した月の浮かぶ空の下、階段とかかとのぶつかり合うカンカンカン、という乾いた音が夜の住宅街に響く。
そうして降りて来る様子を少しの抗議と落胆の入り混じった心地のままに目で追い、目の前で気まずそうに、いやぁ、などと笑った彼を、やっぱり私は口を開くことなく見上げ続けた。
「ごめんな、分かっとるよ。今日はキミ、ひとりで過ごしたい大事な日やってんもんな」
そうだ、全く以ってその通り。その為に私は終業するや否や同僚の誘いをいなし、期限ギリギリの半額クーポンでここぞとばかりに見たかった映画を大人借り。
その足でコンビニにも寄っておでんにビール、お菓子をしこたま買い込んで、本当に、いよいよ準備は万全。
少なくとも彼に会うまでの私は、今年も残す数時間となった12月25日、何か奇妙な強迫観念を掻き立てる大いなるクリスマスパワーに動じることもなく、ひとりどっぷり感傷に浸る気満々で足取りすら軽やかだったのだ。
「せやけど今日しかない思てな、さいなら言いにきてん」
「……昨日、やっぱり言えなかったんですか?」
「何のこと言うてるん? ボクはキミ以外にそんなん言う相手なんかおらへんよ」
上司の顔をしている会社でもここでも、とうに見慣れた嘘くさい笑顔。その顔もあと残す数日で見納め。今年いっぱいで彼は退社する。退社して、どこかへ行くつもりらしい。
別れの挨拶を告げられる私は、即ち彼にとってさよならを言える相手ということに他ならない。一番言わなきゃならない、でも一番言いたくない人にはつまり結局、何も言わず終い。
そして一番言いたかった、でも一番言えなかった想いを大切にし続けている私とこの人との不思議な関係も、今日でお終い。
「おでん。食べましょう、市丸さん」
「ええの? だってキミ今日――」
「上司の送別会に付き合わないほど薄情な部下だったでしょうか」
「……おおきに」
いつもと同じように部屋に通して、いつもと同じようにビールを開ける。特に何をするでもなく、話といった話も殆どしない。送別会には程遠い。
借りてきたDVDの一本目、所々ねらった笑いを挟みつつもオチの読める感動ヒューマンドラマが垂れ流されている。残念、これは外れだ。
けれど市丸さんは、面白い筈もないのに、おでん片手に時折くくっと喉で笑う。その何回かの後、面白いですか? と答えの知れた質問をした。
「ん、そうでもあらへんよ」
ほらやっぱり。
でもきっと、それでいいんだと思う。映画が面白いか面白くないかとか、そんなことは多分、どうでもいいこと。
こうしてただ同じ場所で同じ空気を吸っているだけ。ただそれだけの関係。最後まで何も変わらない。一番行きたい人の元へ行けない者同士、変わったことはしない。
またえらい徹底的に不毛な話やね、と言われた私のそれ。でも決して不幸ではなく、ただ想い続けるだけのこの日々をそれなりに幸せと思っている私を、市丸さんは理解している。
その時間が長くなり過ぎた今、私にとってその人を想うという行為は日課にも似ていて、それを含めて私の毎日は正しく機能している。
「キミ、今日もぼちぼち誘われたんやろ?」
「3人くらい……だったと思います」
「ふ、ほんま、えらいかわいそやなぁ」
けれどその人がハネムーンごと遠く海の向こうの地へ行ってしまった今日は、私が彼と最後に言葉を交わした愛しい日でもある。だから私は、毎年この日だけはひとり思いっきり泣く。儀式、みたいなものだ。
そうすることで私はまた一年、その人を想って立っていられる。泣かずに頑張れる。例えこの先ずっと女として会うことが叶わなくても大丈夫。その人の一番じゃなくたって、私の中では一番。
だけど最後まで変わらないはずだった今日は、市丸さんのひと言で一転する。
「せやけどな、今日は最後やから言うとくわ」
「はい……?」
「一番やのうてもええなんか、もう言うたらアカン。キミかていつかは誰かの一番にならな。キミにとって一番の誰かの、な」
なら市丸さんはどうして、と思う。誰が一番か、互いにそれが明確であるにも拘らず、何故あなたは何も言わずにあの人を置いて、あの人の元を去るのか。
「二人の離縁、そんなんは望んでへんねやろ?」
当たり前だ。身内の不幸を望むほど、この想いを悪い方へこじらせてはいない。こじらせるわけがない。その人の一番は、私の実の姉なのだから。
頷く私を見た市丸さんは、ふ、と淡い笑みを零して、ええ子やね、と言う。なら市丸さんもいっそ、ええ子、になってしまえばいいじゃないか。だから、どうして――
「市丸さんは……」
「ん……? あぁ、ボクな? どうしてもやらなアカンことがあるんよ」
慎重に言葉を選んだ感じのする曖昧な物言いに、私は口を噤むしかなかった。
ふらっと現れてはただこの空間にいただけの市丸さんもまた、年明けにはその、やらなアカンこと、とやらの為に遠くへ行く。どのくらい遠いのか、感覚で分からないほど遠くへ。
私にとってそのこと自体は何の差し障りもない。引継ぎもほぼ終わっている。その上、この奇妙な空間共有の時を知る人は誰もいない。私と市丸さんだけの事実。リアリティも何もあったもんじゃない。
「せやけど、何やここはほんまクセになる場所やったなぁ」
「いたって普通の部屋だと思いますけど……」
「どないに言うたもんやろかねぇ……キミ大人しいし、ニ人でおっても一人でおるみたいやねんけど、せやっても一人やあらへんいうそないな感じが、何や知らんけどえらい心地良かってんわ」
「あっ、それは私も……です」
いつだったか市丸さんが、キミとボクはV字みたくまるで違う方を向いとるからこないにおれるんやろな、と笑ったことがあった。Oの字みたく、丸なったらお互いきっとアカンくなる、と。
だけど私に言わせればV字じゃなく、X字だ。互いに違う方から来て、一瞬だけ交差して、また全く別の方へと進む、X。
そうして分かれて進む先がお互いの本当に行きたい場所だったらいい。今になって何故か、強くそう思う。例えそれが、今それぞれが一番行きたいと思っている場所じゃなかったとしても。
「何や、さびしなるなぁ」
「それ、こちらが言う台詞です……」
私と市丸さんの間に、まさかこんなにしんみりする時間が訪れようとは夢にも思わなかった。
だけどその中にも確かなやさしい何かがあった今年のクリスマスを、私は来年も再来年も思い出す。そんな気がした。多分もう、この日におでんは食べないだろう、とも。
−END−
[10/12/26 Sun 01:27]
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