ある村の昔話







「司郎、こんな時間まで外にいるの?」

「…………ん」

「そんな危ないよっ!変なオジサンに連れ去られちゃうっ!!」

「………ありえないよ、女の子じゃないんだから」

「だ……だめっ!!………そうだっ、これからは僕が迎えに行くから、ここで待っててっ!!」

「…………気が向いたら」



子供の頃、
双子の兄弟が交わした小さな約束。
唯一、求導師である幼い兄がやぶった、
小さな約束。










       Act10.5.














「司郎、司郎、司郎」


狂ったように空間に生み出される、意味を成さない固有名詞。


「司郎、あいしてるわ、司郎。私の可愛い司郎。」


美しい女性の腕に抱かれた少年は、虚ろな瞳で虚空を見つめていた。




別に、妙なことなど一つもない。
宮田家のいつもの風景だ。
逃げ出せないようにと、立ち上がって家から出ないようにと、
傷つけて、傷つけて、傷つけたられた、宮田司郎はあちこちに青あざと、赤黒い血のあとを、青白い肌に残している。


「司郎」


名前を呼ばれ、年不相応の、曇りガラスのような瞳を、ゆっくりと数回瞬きをさせた。

綺麗に歪んだ、母親の赤く薄い唇を見つめて、次の言葉を待つ。


「司郎」


母親の細く長くしなやかな指が、髪の一本を絡め取り、優しく撫で上げる。


「司郎」

「っっ!」


唐突に、前髪を強く引っ張られた。
顔を歪めて、痛みで閉ざされる瞳を、薄く開いて母親の表情を伺う。


「ねぇ、司郎。どうして最近、遅くまで帰ってこないのかしら?」


泣き出しそうな表情に見え隠れする、怒りの表情は、司郎が、今までに何度となく見た表情だった。


「私、寂しいの。アナタ、またどこかにいっちゃうんじゃないかって」

「心配で心配で、しょうがないの」


髪から手が離れていく。
見上げた体制は、崩さず、一言も発さずに、司郎はただただ、母親の言葉に耳を傾けた。


「でも、アナタすぐにどこかに行ってしまうでしょう?」


困ったような、母親のため息。
演技がかったソレに思わず、体が震える。

母親がため息をもらす時に、良い事が起きた試しなど、一度としてなかった。








「良いわよ、出てって。」







だからかもしれない、その一言は、宮田の心をヒドく踊らせた。


手のひらがするりと抜け、冷たい人肌がするりと離れていく。


母親は立ち上がって、ドアノブの鍵を外した。


開かれたドアに、フラフラと足を動かす。

学校以外で開かれることのなかった、大きなドアが、司郎には今、輝いて見えた。



近づくにつれ、だんだんと足早になる、歩調。
最後には焦がれに焦がれた解放に向かって、全力で走り出した。

後ろを振り返ることもせず、ただひたすらに、息を乱して走り続けた。


(やっと、やっと、やっと!)


解放された喜びに、口元を綻ばせながら、昼間、快晴の空の下、ただひたすらに走り続けた。












「きっと、アナタは帰ってくるから」



美しい女性の言葉を聞くものは、誰もいない。










春先ということもあって、暖かい、過ごしやすい気温は、幼い少年の救いだった。

無我夢中に家を飛び出して、フラフラと歩く。
それこそ、行く宛の無い道だが、司郎にあの家に戻る、という選択肢だけはありえないものだった。


次第に暗くなってきた曇天。


雨は、いまにも降り出しそうだった。










「………寒い」


夜になり、気温の低くなった外。

長袖一枚では流石に寒く、司郎は、街灯で僅かに照らされた場所に座って、膝を抱え、小さく丸くなった。


ふと、目の前にある、真っ黒の暗闇が、目に入り、言い知れない恐怖感が幼い体を襲う。
司郎は小さく震えて、立てた膝に顔を埋めた。






突然
すっと、影が宮田に降りかかってきた。


驚いて、顔を上げる。


「…………司郎?」


目の前には、双子の片割れがいて、自分を見下ろしていた。

牧野がゆっくりとしゃがむ。
目線が合わせられて、数秒の間、目が合う。


「こんな時間まで外にいるの?」

「…………ん」


小さく頷いて、宮田は答える。
牧野は途端に表情を焦ったものに変え、あたふたと慌てだした。


「そんな危ないよっ!変なオジサンに連れ去られちゃうっ!!」

「………ありえないよ、女の子じゃないんだから」
「だ…だめっ!!………そうだっ、これからは僕が迎えに行くから、ここで待っててっ!!」


珍しく強気な、片割れに目を丸くしながら、司郎は牧野を見た。


(別に、何か用事があるわけじゃないから、家には帰らないのに)



なんとなく、今は牧野の暖かさに触れたくなった。


ジッと目を合わせてから、再度、顔を埋めると宮田は小さく呟いた。


「…………気が向いたら」


馬鹿げている
そう考えながらも、小さく上がった口端に、思わず自身で呆れてしまった。


差し出された小指と、差し出した小指は、短い指切りを交わした。








約束通り、宮田は学校のあと、フラフラと村を歩いてから、昨日の街灯の下にいた。

昨日は、なんとか降らなかった雨も、今日は溜まった水を吐き出すかのように降り注いでいる。

陰鬱な天気とは逆に傘をさした宮田の心は僅かに弾んでいた。



たった独り、牧野の存在を待って、宮田はひたすら寒さに耐え続けた。


早く、あの暖かさがほしいとひたすらに、待ち続けた。



「………………」



何時間たっただろうか、
1時間か
それとも10時間か
どんなに待っても牧野は来なかった。



約束を破られたんじゃ、などという嫌なことが頭をよぎる。


(………別に)



独りは寂しくなかった。
家でも、学校でも、
いつだって自分は独りだった。(………だから)



もう少し、もう少しだけ、独りで待ってみることにした。







教会の、0時を告げる鐘が村に鳴り響いた。


そこでようやっと、自分が寝てしまっていたことに司郎は気づく。


どこをどう見ても、牧野の姿も、来た気配も何も無かった。


目の前に広がるのは、ただただ、真っ黒な闇ばかり。
体を包むのは、寒さばかり。



(…………ああ)



裏切られたんだと、悟った。


ここに、約束なんてものは無く、

自分は馬鹿みたいに、無い約束にしがみついていたのだと気づいた。



手を伸ばせば、暖かい手のひらに触れられるはずもなく、それは空を掴んだ。


ゆっくりと、唇を歪める。


(『何』を、期待してたんだ)



「はは……」




曇天を見つめる。

寒さと雨が、嘲るように宮田を打ちつけ、乾いた笑い声は、雨に吸収されていった。


「はははは………」


雨を、掴む。

孤を描く月に、震える手を伸ばす。



どんなにもがいた所で、掴める物なんて、何も無かった。



「っ………あああああああっ!!」



投げ捨てられた傘の折れる音と
悲痛な叫びが闇を切り裂いた。



(二度と)



その日、宮田は子供を捨てた。








「おかえり、司郎」


当然のように、言われた言葉と、広げられた腕。


来いと言わんばかりのその態度に、素直に宮田は従う。


「ただいま帰りました……母さん」



濡れた顔で、宮田は綺麗に笑ってみせた。








子供の頃、
双子の兄弟が交わした小さな約束。求導師である幼い兄が、唯一やぶった、
小さな約束。

弟から流れるのは、
涙か雨か、

幼い弟の感情論は、その日全て壊された。


優しく残酷な兄によって。

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