目的地は特にない。

 ぽくりぽくりと馬が気まぐれに歩む先。悠長な流れに沿って道を進めばここに辿り着いていた。それが日常。デイドン砦の騒ぎが静まってから移動を開始した小さな宿は、現在アスピオ付近に停留中。それは一見珍しい、放浪型の旅人宿だった。

 それを生業にして随分経つ。常に結界外を行き来するため多少なりとも危険の伴う仕事ではある。けれど時の流れで培われた知識や判断は必然的に玄人の域。今更、魔物一匹で驚くこともない。その日もいつものように五感がぴりりと反応した。お昼の準備に薪を拾う女性、彼女の手がぴたりと止んだ。


「お兄ちゃん!」
「…なんだ…カレン?…」
「ほらあれ! こっちきてる」


 指した先には一頭の茶色い獣。慎重にどこか急くように歩んでくる。


「カレン、宿の中に入っていろ…」
「うん。……あれ?」


 背中に女の子が乗ってる、そう呟いて目を凝らす。乗ってるというより乗せていると言ったほうがいいかもしれない。獣の背に力なく被さる少女を視界に捉えた。距離を詰める獣は見たところ狼。ぽくぽくとゆったりした足取りで歩いてくる。襲いかかる気配は感じられないものの、危険でない証拠はどこにもない。
 
 寡黙な青年はぐっと眉を潜めてホーリィボトルをすばやく宿一体に撒布した。カレンと呼ばれた女性は言われた通り宿に身を潜め、ひょっこり顔だけ出して青年と近づく獣の様子をうかがっている。その獣が近づくにつれ、二人ともその風貌に疑問符が浮かんだ。


「あの獣、どこかで」
「…俺もそう思った」
「あ…デイドン砦の? 平原の主、おっぱらってくれたよね。あの子じゃないかな」
「…む…」


 獣がはっきりと視認できる距離までやって来た。狼と思しき獣は背に乗せた少女をそっと地面へ据えた。草花のクッション。辺りの野草がふわりと舞った。獣はじっとこちらをうかがう。少女から少し距離を置いてふせの恰好。はたはたとはためく尻尾は敵意を感じさせない。言うなれば白旗のような感じで、急かすように視線がささる。…。……。…じー。

 視線に耐えかねて、というわけでもない。青年は思わず一歩踏み出した。獣はただじっと距離を開けたままふせの状態を保ち続けている。きっとだいじょうぶだ、確信があった。青年は草の上の乗せられた少女に近寄って、その様子を見るなり思わず声を上げた。


「!?…カレン…!…手当ての用意を…!!ッし…てくれゴホッ」


 普段大声を出し慣れていないせいで、語尾が消えかけていたし少しだけむせた。ごほごほと吐き出し終えた咳に続き息を整えて、青年は少女を丁重に抱きあげた。ほっとしたように息を吐いた獣。しっぽがばさりばさりと地面を掃いた。


「…ワンくんもおいで」
「がう(ぼそっ…だから俺犬じゃねえし)」
「?」
「わうん」


 旅人宿に戻った青年の元に心配そうに近づいたカレン。腕に抱えられた少女の姿に息をのんだ。右肩の大半がべっとりと赤く色付いている。思わず心臓が跳ねた。震えた指が動く先、手にしたバスケットから清潔な布と精製水をすばやく取りだしてカレンは手当ての準備を始めた。寝かせられた少女の肩が外気に触れる。傷口を見てしばらく、カレンの目の動きがぴたりと止んだ。


「傷…ふさがってる」


 未だ渇ききらないその赤と見合わないのは明らかだった。じんわりと滲んでいても傷はしっかり口を閉じている。訝しむよりも先にカレンは安堵の息を吐いた。続けて、繊細な指先がするりするりと少女を介抱していく。


 血と砂に汚れた頬を濡らした布でゆっくり拭き取った頃、ようやくそれは終わる。お兄ちゃん、と呼ぶ声に反応して青年は顔を見上げた。にこりと笑い少しだけ首を傾げたカレンは「ちょっとあっち行っててね」と宿の外へと人払い。そして身にまとっている少女の上着に目を向ける。着替えさせてお洗濯。カレンはよしと一度意気込んで次の作業に取りかかった。




 宿から少し離れたところで行儀よくふせっている狼が見える。唐突に追い出された青年は彼(多分オスだと思う、見ため的に)の傍にそっと近づいた。狼は心配そうに耳を下げてこちらをじっと見つめてきた。


「…だいじょうぶ、今カレンが手当てした…」
「がうー…」


 そう言って青年は狼の頭をなでる。意外にもさらさらした毛並み。大人しくなでさせてくれるままに、いいこだ、と喉をくすぐった。


「…よくやったな、偉いぞ…」
「…わふ」
「あの女の子は…君のご主人さまなのか?」
「がう」
「そうか…目を覚ましたら…お礼を言わないとな。君にも」


 お礼をいうのはどちらかといえばこっちらの方。獣は意味を捉えきれずにしぱしぱと瞬きする。なんだかんだで会話が成立してしまうその仕草に青年は少し驚いた。…自分の一方的な問いかけやらに反応してくれているだけだろう。そう解釈して、続きを話し始める。


「…デイドン砦…平原の主を追い払ってくれただろ。遠目からでも…獅子と赤い服の女の子、見間違えはしないさ」
「…」
「…ワンくん?」
「がぁう」


 そんな会話をしているところに、カレンが両手いっぱいに洗濯物を抱えて宿から顔を出した。


「私ちょっとそこの海岸まで行ってくるね」
「…なら宿を動かせば…荷物もあるし…」


 聞いたカレンはぶんぶんと横に首を振る。怪我人がいるのよ、と手に持つホーリィボトルを振りながら。歯切れの悪そうな顔をする青年に、すぐそこだから、と優しく微笑んでみせた。けれど青年も引く気はないようで、かといって宿を動かして少女に負担を掛けるわけにもまたいかない。狼はそんな様子を見てひと鳴きする。その視線に応えて、青年は膝をついて狼の頭を撫でた。


「…ありがとう、すぐ戻る。行こう、カレン」
「え?」
「…ワンくんがいてくれる…」


 その言葉を後押しするように短く吠える声が響いた。



 ざくざくと二人の遠ざかる音が聞こえなくなってしばらく、狼はひょこっと宿の中に顔をのぞかせた。視線の先にはすやすやと穏やかに寝息を立てる少女。その様子にほっと息を吐いた。


「ごめんな。ルー」


 どうせ、気にするなって笑っていうんだろ。だから今言っとく。


「ごめんな」


 危惧していなかったわけじゃない。自分ならだいじょうぶだと思ってた、どんな状況でもどんな理由があっても。自分の牙が主を裂いた事実は消えない。それが悔しくてたまらない。今も口いっぱいに残る甘いような苦い味。心が締め付けられるくらいに悲しいものだった。


 ルーを守る牙が、ルーを傷つけた。


「なあ、ルー」


 聞こえるかそうでないか、こぼれたのはか細い声だった。


「俺な、たまに思うんだ。最初っから間違ってたんじゃないかって。最初の最初から全部間違ってたんじゃないかって思うんだ」


 それでも後悔なんてしなかった。ルーがここにいる。それに変わる幸福は、きっとない。どんな姿でもどんな生き方だとしても。正しいといえば違う。正しくないといえば違う。ただ怖いのはひとつだけ。あの日自分がしたことが、果たして本当に正しかったことなのか。その答えを知ってしまうこと、それが酷く恐ろしい。

 自分はたった一人ですら、まともに救えなかった愚かな獣。ルーを見る度、自分の非力さを目の当たりにするように、あの日の罪過を保ち続けている。見えない何かに、幾度も蝕まれていくように、行き場のないやるせなさに。ぐるぐると喉が鳴った。


気にするな、ばかもの


 呪文のように浮かび上がる言葉。ルーの声が、内に響く迷いと混線して心が乱れた。無意識に込めた力を抜いたら、吐き出した息にルーの前髪がふわりと凪いだ。同じ髪色。押し寄せる不安も猜疑も、ルーと一緒なら乗り越えられる。もう何度も思ってきた。今もそうだ。唯一無二の存在に、どことなく安堵した。

 今傍にいるのは贖罪でもない。何の縛りでもない。引け目を感じていては逆にそれを怒るだろう。彼女はそんな人だ。ただ漠然とルーを守りたい。それだけだ。


「俺、お前に何ができるかな」


 そっと身を乗り出してペロリと頬を舐めたら、ほのかに涙の味がした。



魔狼の罪過
(…早く目ぇ覚ましてくれよ)
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