「本当に一週間だけでいいんだ。だから、お願い」

ねっ、この通り。そう嘆願する一之瀬くんは、二枚の手のひらを合わせて頭を下げた。一之瀬くんの茶に透けた髪の一本一本がその動作に従ってはさらさら揺れる。わたしはそれを目で追いながら、困惑するままに一之瀬くんを引き留めた。

「顔上げてよ…!恥ずかしいから」
「君が引き受けてくれるって言ったらやめる」
「ええっ、む、無理…!だって、」
「じゃあ止めない。なんなら土下座したっていいけど?」
「っ、」
「じゃあ決まりってことで。いいよね?」

一之瀬くんは途端にぱあっと明るくなって、わたしの右手を取る。すかさずやめてと振り払おうと伸ばした左手まで、一之瀬くんの健康的な色をした堅固な手のひらに捕まってしまった。「こんなところ、誰かに見られたらどうするの」辺りをきょろきょろ見回すと、どうやら放課後も終盤と言える時刻なのが幸いしてか、今のところ周囲に人影はない。よかった。

「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。何しろ俺達、付き合ってるんだから」

……ああそうだ。今日からわたしはこの人の彼女になったんだった。一週間ってゆう期限付きで。



Cantrip that cannot be released.



一之瀬くんの彼女(ただし彼女の前に仮と付けるのを忘れないで頂きたい)になってから約一日が過ぎた。今日は二日目である。今のところ、たぶん誰にもわたし達の関係は知られていないはずだし問題はない、と思う。もちろん、実際に一之瀬くんから聞いたわけじゃないし何とも言えないけれど。
朝、教室に向かうべく日課とでも言うように生徒で溢れ返っている長い廊下を所狭しと歩いていると、きゃあきゃあと女の子達の上擦った高い声が耳に入って来た。ほんの興味本位でその声がたくさん集まっている方へ視線を向けてみると、土門くんと一之瀬くん、が女の子達に囲まれているのが見えた。おめでとうおめでとうと次々に一之瀬くんへ浴びるように掛けられている言葉の意味から推測するに、たぶん今日は彼の誕生日なんだろう。まぁ、形状は付き合っているとはいえわたしには全くもって関係ない話だけれど。……でもせっかくだから、次に会ったらおめでとうくらい言ってあげようかな。
そうぼんやりと考えといると、高すぎずでも低すぎない声がわたしの名前を呼んだのがはっきりと聞こえた。……まさか。そう思って人だかりになっている方向に顔ごと向ければ、一之瀬くんがにやりと笑ってまたわたしの名前を呼ぶ。しかもどうして、この状況で下の名前なの。

「おはよう」

たった一言。されど一言。それが周りの女の子達の悲鳴を沸かせるには充分のようだった。何しろ、一之瀬くんが下の名前を使って女の子を呼ぶのは木野さんくらいしか聞いたことがないからである。それがたった今、一之瀬くんがわたしを木野さんと同じように呼んだのだから、端から見て"特別"という風に見られても仕方ない。
現に、女の子達は一斉に一之瀬くんに「あの子なんなの!?」とわたしを指差しつつ口を揃わせて質問攻撃を繰り出している。

「あ、まだ言ってなかったっけ?付き合うことになったんだ。俺達」

爽やかに言ってのける一之瀬くんに再度悲鳴に近い声があちらこちらから漏れた。一ノ瀬くんはそんな彼女達に目も暮れず、目をわたしに向けたまんまでひらひらと手を振る。愛らしいウインク付きで。……もう、いい加減に勘弁してほしい。







「ねえ」
「…」
「ねえってば」

ガシッといきなり手首を掴まれて、早歩きで歩いていたせいもあって反動で足元がぐらつきそうになるのをすんでに抑える。バランスを崩しかけたわたしの腰を透かさず支えようとする一之瀬くんの片腕を恨めしいと言わんばかりに睨み付ければ「何で怒ってるの」と怯むというより困っている表情をされた。わたしは、アメリカ仕込みだか帰国子女だか知らないけど、こんな風に一之瀬くんの無駄に女性慣れしているところがたまらなく嫌だ。何でか自分でもわからないけど、一之瀬くんのひとつひとつの動作に馬鹿みたいにドキドキして翻弄されて、いろんな意味で負けた気持ちになるのだ。


「べつに、怒ってないよ」
「嘘。完璧に怒ってる。表情におもいっきり出てるもん」
「……だって、一之瀬くんが最近やたらとわたしにベタベタするから…、」
「あ、もしかして照れてるとか?」
「ち、がう!」
「ははっ、嘘だよ。………ごめん」

一之瀬くんの模られたように綺麗な眉が頼りなげに下を向いた。本心でそうしているのか演技なのかわからないけれど、とりあえずわたしを後ろめたい気持ちにさせるのは充分だった。調子が…狂う。ああやっぱり一之瀬くんって苦手だ。表情が子供みたいにくるくる変わって眩しくて、でも時にはわたしなんかよりもずっと大人な行動を取ったりするし、わたしはただただ振り回されるばっかり。

「俺のこと……もしかして嫌い?」
「えっ」
「今回だって俺が強引すぎて断れなかっただけで、ほんとはこの数日間が嫌で嫌でたまらなかったりとかした?」
「、そ…んなことは」
「ごめん。俺、いつもこんなだからよく秋や土門に怒られるんだ」
「…」
「昔いろいろあったせいか、わりと甘やかされて育てられてさ。そのせいかわかんないけど、俺、わがままなんだ」
「…」
「もうこの前のこととか忘れてくれていいから。本当に迷惑かけて、ごめん」
「…」
「じゃあ、またね」
「……、あの、待って!」

気が付いたら、踵を返そうとする一之瀬くんの手首を反射的に掴んでいた。さっきと全く逆の立場である。わたし自身、何が何だかわからない。でも、このまま一之瀬くんを帰したらダメだと思ったのだ。本当にたったそれだけ。一之瀬くんを引き留める理由にしては不十分かもしれないけど。

「わたし、確かにいきなりでびっくりしたけど、いつもわたし自身が緊張しちゃうだけなの。何でかわかんないけど一之瀬くんを前にしたらわたし、上手く喋れなくて。それで勘違いされても仕方ないと思うけど、でも、ほんとに迷惑じゃなかった…から、」

咄嗟に口から零れた声はあまりにどぎまぎしてしていて言ってるこっちが恥ずかしい。それでも弁解のような言葉達は自分でも不思議なくらい次から次へと湧いて出た。
歯切れ悪くたどたどしい口調がよほど愉快だったのか一之瀬くんはさっきのしょんぼりした雰囲気は廊下の窓から吹き付ける風に何処か遠くへ飛ばされてしまったみたいに明るい声を上げて笑った。呆れる。せっかく人がフォローしてあげているというのに。

「な、何が可笑しいの…!」
「ふふっ、だってさ、必死に弁解する君の顔、真っ赤なんだもん」
「…」
「何も睨まなくてもいいでしょ。すぐに怒るんだから、君は。……ま、そんなとこもかわいいからいいけど」

ほら、まただ。
一之瀬くんは女の子を喜ばせる方法を、きっと数え切れないくらいたくさん心得ている。だからこうやって相手が女の子なら誰彼構わず甘いセリフを浴びせ掛けるのだ。
一之瀬くんはサッカーではフィールドの魔術師と呼ばれているらしいけれど、恋愛に関しては言葉の魔術師って名乗っても何等違和感がないくらいだとわたしは思う。一之瀬くんが一度甘い言葉を囁けば、女の子はころっと簡単に彼にオチてしまう。
なんて、今みたいに客観的に話しているわたしでさえも、そんな言葉の魔術師に翻弄される一人なのである。なんと滑稽な話だろう。でもそれも全部一之瀬くんのせいだ、一之瀬くんが悪い。この前の頼み事だって、今だって、思わせぶりなことはやめて欲しい。もっと突き放してくれたら、関わらないでくれたら、こんなに思い悩むことだって欠片もないのに。


「じゃあ、わたし、そろそろ帰るね」
「あ、送って行くよ、女の子だけじゃ危ないから」
「ううん、平気。それにこの前の約束はもうなかったことにしていいんだよね。だったら、」
「…」
「じゃあね、また明日」

わたしも先程の彼に倣って踵を返そうとすれば、また一之瀬くんの華奢なわりに堅固で骨張った手がわたしの手首を掴んだ。そのまま引っ張られて気付いた時にはもう一之瀬くんの腕の中だった。突然の事態に身体はまるで硬直してしまったかのように動かない。そんな最中、一之瀬くんの吐息が首に掛かったせいで心臓が勢いよく跳びはねた。

「ねえ、まるで俺達、いたちごっこしてるみたいだよね」

わざとなのか、一之瀬くんの甘やかな声が耳元で囁かれて、頭がぐらぐらしてはぼうっとする。やけに一之瀬くんの声音が色めいたものに感じたのはきっと状況が状況だからに違いない。(は、やく、離れなきゃ…!)慌てて男の子特有の堅い胸板を引きはがそうと力いっぱい腕を伸ばせば、案外するりと拘束は解けて、それを機にわたしはそのまま後退った。

「そんな露骨に嫌がることないのに…、傷付くなぁ」

一之瀬くんがゆっくり足を進めて来るのに従ってわたしとの距離もそれに比例して徐々に縮まってゆく。すぐ後ろには階段。逃げようと思えば、逃げられる、のに、足が動かないのはどうしてだろう。

「さっき、わがままだって言ったでしょ?」
「、うん」
「言った通りなんだ。俺わがままだから、欲しいものは何が何でもすぐに手に入れたくて仕方なくなっちゃうし手に入れないと気が済まない」

ねえ、だから、俺のものになってくれる?
髪と同じ色の、くりくりした瞳はわたしを捉えたまま離さない。まるで瞳の中に吸い込まれてゆくような感覚に、生まれてからずっと繰り返して来た筈の呼吸法さえ忘れてしまったみたいに息が、詰まる。心臓も皮膚を突き破ってしまうんじゃないか不安になるくらいドキドキと慌ただしく脈打っていて、一之瀬くんの瞳が近付くにつれて音も速度も上がっていくのだ。もう、どうにでもなればいい。なんて投げやりな気持ちになってしまうのは、もうわたしがとっくに一之瀬くんの魔法にかかってしまっているからなのかもしれない。



(100315)

ヒロインと繋がるきっかけが欲しかった一之瀬

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