その後、リョーマ優勢のままゲームは進み、ゲームカウントは4-1。優勝まであと2ゲームというところまで来た時、静かに試合を見守っていた不二が、訝しげに言った。



「なんか変じゃない?あの攻め方」

「え?」

「ただ上下の回転を交互に打っているだけのように見えるけど…」



不二に言われて改めて伊武のショットを観察すると、確かに上下回転を交互に打っていて、リョーマもそれに合わせてリターンしていた。特別鋭い回転をかけているようにも見えないし、厳しいコースを狙っているわけでもない。ただ淡々と、上、下、上、下と繰り返す。確かに少し変かもしれない、とすずも首を傾げた。



「不動峰の狙いは何…えっ?」

――― 15-0!



すずが言いかけたその時、一瞬、ボールを追いかけていたリョーマの動きが鈍った。止まったかのようにも見えたその一瞬のうちに、ボールは打ち返されることなくフェンスを揺らし、ポイントは伊武に入った。何が起きたのかと、ギャラリーは少し騒めき、またリョーマ本人もよく分からないというように、手を握ったり肩を回して動きを確かめている。



「なんだ?今の」

「おチビちゃんの動きが一瞬止まったように見えたけど…」



青学ベンチに座るレギュラー陣も首を傾げる中、再び始まったラリー。伊武はまた上下回転を交互に打っている。何かの作戦なのだろうか。であれば、その目的はなんだろう。すずが思案していると、またリョーマの動き―――正確にはラケットを持つ腕の動きが鈍る。また止まるのか、そう思ったがしかし、リョーマはあろうことか体ごと回転させてラケットを振ろうとした。



「越前のやつ、体を回転させて強引に打ちにいった!」



リョーマの体が回り始めた次の瞬間、彼の手からラケットが滑り抜けた。ラケットは勢いのまま斜め前方へと飛んでいき、ネットのポールに当たり、折れて、砕ける―――そしてグリップ部分が、リョーマ目掛けて跳ね返った。



「っ、危ない!!!」



思わず目を覆ったすずが次に見た光景、それは、コートに四つん這いにうずくまる幼馴染と、無惨に折れた赤いラケット。そして彼が左目に添えた指の間から流れてコートを濡らす、赤い血だった。





試合が一時中断され、ベンチへ戻ったリョーマの左瞼からは、止めどなく血が溢れてきた。とにかく何より先に止血せねばとガーゼを当て続けるすずだったが、量は少しずつ減るものの一向に止まる気配がなく、ガーゼはどんどん赤く染まっていく。



「…っ、止まって」



切れたのが比較的眉に近い箇所で、眼球は無事なようだったのは不幸中の幸いとも言えたが、それでも出血が続くのはまずい。腕や足のように縛ることができない瞼は、ただ圧迫することしかできない。替えても替えても赤く染まり、足元に溜まっていくガーゼとともに、すずの焦りも募る。



「どうだ、園田」

「…ダメです、まだ止まりません」



すずに問う手塚の声にも、心配の色が滲む。他の青学メンバーや応援団たちも口々に心配の言葉を口にした。



「こんな状態じゃ続行不可能だよ。ここまできて棄権するのは悔しいが…」



大石の言葉に、おそらく青学全員がそれもやむを得ないと思った。血が止まらないこの状態で試合はできない。火を見るより明らかだった。



「うわー、バラバラ。越前!壊れちまったラケット、バッグに入れとくぜ」



治療中のリョーマに代わりコートへ向かった桃城が、折れたラケットを手にリョーマを呼んだ。すると、それまで大人しく座っていたリョーマが瞼を閉じたまま口を開いた。



「桃先輩、ついでに代わりのラケットを出しておいてください」

「!?ちょ、は!?」



驚愕のあまりガーゼを抑えるすずの手の力が強まり、リョーマが小さくうめく。



「すず、痛い」

「当たり前でしょ、切れてるんだから!この状態でまだやる気なの!?」

「無茶だ!その傷で!」

「無理しない方が良い。あまりにハンデが大きすぎる」



すずに続いて大石、乾も止めに入るが、リョーマは何も言わない。



「越前君、まさか続けるつもりなのかい?血が止まらないんじゃ、試合をさせるわけにはいかない。ここまできて残念だろうが、諦めなさい。いいね?」



審判もベンチに駆け寄りリョーマに言い聞かせるが、それでも気は変わらないらしい。リョーマは止血するすずの手を退けると立ち上がり、ユニフォームの袖で瞼の血を拭った。



「やるよ」

「あ、あのね、君」

「血は止まったよ」



あまりに平然と言い放つリョーマに、審判がたじろぐ。止まった、と言うが、すずが見る限りじんわりと傷口から血が溢れている。出血量が減っただけで、止まってはいない。リョーマを止めたい。病院に連れて行きたい。しかし言い出したら聞かない幼馴染の性格も、すずは理解していた。



「はぁ…リョーマ!ちょっとおいで!」



手塚と話していたスミレが、見かねてリョーマを呼んだ。ベンチの前で腕を組み、リョーマを見下ろす。



「ったく、何が止まった、だい。どうしようもないおバカだね、お前も」

「悪いっスか?」

「痛いだろうに」

「痛くないっスよ」



依然として主張を変えないリョーマに、スミレは諦めたように小さくため息をついた。仕方ない、そう言うかのように小さく笑いをこぼすと、スミレがすずを呼んだ。



「園田!救急箱貸しな!」

「は、はい!」



すずが救急箱を抱えて駆け寄ると、スミレはガーゼを重ねてすばやく自分の指に巻いた。


「リョーマ、痛いよ」

「っ、痛って!」



言われるや否やすずの止血よりもかなり強く、グッとガーゼを押しつけられ、リョーマが痛いと声を上げる。それでも構わず押さえ続けるスミレの横で、すずは2人をハラハラと見守った。



「さぁ、済んだよ」

「…止まった」

「止まった!?さっきまで全然止まらなかったのに!」

「いや、一時的に止めたに過ぎんよ。保って15分が限界だろう」



驚いてリョーマの顔を覗き込む大石。眼帯よろしく覆われたリョーマの左目のガーゼは、確かに白いまま、血は滲んでいなかった。



「血が止まれば、試合しても良いんスよね?」

「そ、それは、確かにそういう言い方をしたかもしれんが、しかし君…」

「越前、ラケット」

「どうも、桃先輩」



戸惑う審判を横目に桃城からラケットを受け取ろうと歩き出すリョーマの前に、しかし大石が立ちはだかった。何も言わず、ただリョーマを見つめる大石は、この頑固な後輩を棄権させたかった。手塚も控えているし、まだ負けが決まるわけじゃない。一時的に血が止まっているとはいえ、顧問のスミレが許可したとはいえ、怪我した後輩を行ってこいと手放しで試合に送り出せる大石ではない。



「越前」

「…部長」



大石の肩に手を置きながら、手塚がリョーマを呼んだ。しばらくじっとリョーマを見つめると、手塚は徐に、しかし強く「10分だ」と言った。



「10分でケリがつかなければ、棄権させるぞ」

「手塚!」



まさか手塚まで、と驚きの声をあげた大石だったが、時間制限を聞いてなお「十分だ」と好戦的な笑みを浮かべる後輩を見て、折れざるを得なかった。



「はぁ…越前、いってこい!無茶するなよ」



桃城からラケット、海堂から帽子を受け取り、コートへ戻ろうとしたリョーマは、立ち止まってすずを振り向いた。少し躊躇ったすずは、サージカルテープを片手に、小走りでリョーマに駆け寄った。



「…本当は嫌なんだからね」

「だろうね」

「…病院に引きずって行きたいんだからね」

「だろうね」



左目を覆うガーゼがずれないように補強しながら言うすずは心配で泣きそうなのに、当の本人は悔しいくらいにいつもと変わらない。悔しいついでにもう一言二言言ってやりたくもあったが、すずはグッと堪えてリョーマの背をコートへ向かって押した。



「絶対に勝ってくるんだよ!じゃなきゃ許さないよ!」

「当たり前でしょ」



背中越しに振り向いたリョーマを見遣ると、彼は帽子のツバを持って被り直しながらすずに向かってニヤリと笑った。



「黙って見てなよ」



いってきます、とすずにしか聞こえないような声で呟いたリョーマは、今度こそコートへ戻って行った。ゲームカウントは4-2、優勝まで2ゲーム、タイムリミット10分のシングルス2が再開された。


20210825

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