アイスバッグを腕に当てる河村を気遣いながら、すずは試合会場近くの病院へ向かっていた。今頃コートでは、ダブルス1・ゴールデンペアの試合が始まっているはずだった。



「ごめん、園田。試合見たかったよな」

「気にしないでください。今は河村先輩の腕が最優先ですから!」



すずが軽くガッツポーズを作って明るく返すと、眉を下げていた河村が少し笑った。



「それに青学のダブルス1はゴールデンペアですよ?負けるはずがありません。その後のシングルスだって同じです。青学は勝ちます」

「...うん」

「だから病院はさっさと済ませて、優勝の瞬間は会場に戻りましょうね!」



すずがそう言うと、河村は「本当に園田には敵わないなぁ」と小さく呟いた。



「園田はいつもまっすくだね」

「まっすぐ、ですか?」

「うん。初めてあった時からずっと」



きょとんと首を傾げるすずを見て、河村は穏やかに笑った。

スミレからすずをマネージャーとして紹介された時、正直河村は心配になった。パワープレイヤーである河村の体格はガッシリしていて、そんな彼からすればすずはとても小さく、そしてか弱く見えたからだ。マネージャーの仕事は楽ではない。力仕事もあるし、まして青学テニス部は強豪である。ハードな練習スケジュールに、この小さな女の子はついてこられるのだろうか―――しかしそんな心配は無用だった。



「園田はいつも目の前のことに一生懸命で、まっすぐな目をしてて...言い方が変かもしれないけど、かっこいいなって思ってた」

「そんな...そんなことないです、私。かっこよくなんてないです」

「うん、でも俺の目にはかっこよく映ったんだよ」



「宜しくお願いします」と頭を下げた小さなマネージャーは、あの日から今日まで自分たちの隣を、時に先陣を切って走ってくれた。自分を含め、仲間達がこの小さく大きな存在に何度励まされ、何度背中を押されたことか。数え切れなかった。そんな日々を振り返るように、河村は小さく空を仰いだ。



「俺さ、テニスは中学で終わりにするんだ」

「え?」

「高校からは親父の下で寿司職人の修行を始めることにしたんだ。テニスは中学で最後」



驚いたすずが目を丸くしているのを見て、河村はまた笑った。



「だから後悔のないように、なにより力しか取り柄のない俺なんかを必要としてくれるみんなや園田の為に、俺この大会頑張るから」



「だからこれからもよろしく」と言って笑う河村はいつも通りの柔らかな笑顔をしていて、すずの胸はいっぱいになった。テニスへの思い、チームへの思い、そして将来を見据える瞳。河村の意思はどこまでもクリアで、まっすぐで、すずはそんな河村が大きく眩しく見えた。そんな先輩が自分のことを“かっこいい”と称してくれたことが、嬉しかった。それと同時に、河村がテニスをする姿を見られるのはあと数える程しかないのが寂しくて、でも河村の目標が嬉しくて、応援したくて。たくさんの感情がすずに押し寄せた。



「...河村先輩!病院、行きますよ!」



その気持ちをどう表していいか分からなくて、すずは笑った。河村が笑っていたし、なにより河村が言った「これからもよろしく」が嬉しかったから、すずは笑って歩き出した。











すずとしては診察が終わるのを待って、河村と一緒に会場に戻るつもりだった。しかし既に何人か診察待ちの患者がいて、時間がかかりそうだと判断した河村がすずに先に戻っているように勧めた。



「俺はもう大丈夫だから。もし試合の方で何かあった時にみんなのとこに園田がいないことの方が困るよ」



そう言われてしまえば、すずは従うしかなかった。戻る時は気をつけてくださいと河村に言って、すずは病院を出た。



「まだダブルス1やってるかなぁ...ん?」



会場に戻る途中、ぽつりと頭を打った小さな雫に空を見上げれば、あっという間に雨が降り始めた。すずはとりあえず近くにあった屋根まで走ったが、ジャージも髪も濡れてしまっていた。



「濡れちゃった...」



バッグは青学のベンチに置いてきてしまったので、傘はもちろんタオルも持っていない。しかし、いつまでもここにいるわけにもいかない。この雨ならコートも滑りやすくなる。選手がもし転んで怪我をしたら、手当はマネージャーであるすずの役目である。



「...っし!」



すずは両頬をパチンと叩いて気合いを入れると、ジャージの上着を脱いで頭から被って雨避けにし、青学ベンチに向かって走り出した。










―――ゲームセット、ウォンバイ・青学!6-2!



ダブルス1は無事ゴールデンペアが勝利を収め、勝負は1勝1敗。振り出しに戻っていた。通常であればこのままシングルス3が始まる流れだが、降り出した雨の影響で進行がストップしていた。青学も不動峰も全員ベンチで待機していて、やがて本部へ確認に行っていたスミレが戻ってきた。



「ちょっと様子見だってさ。天気が回復したら、シングルスを始めるということだ」

「やるかやらないか、ハッキリしたわけじゃないのかぁ」

「結局、雨次第っていうことだよねぇ」



スミレから伝えられた決定に選手達は少し不満気で、特に直後に試合を控えていたはずだったシングルス3の海堂はペースが乱れてしまったことに不機嫌だった。



「なんか、蛇の生殺しってコレっすかね」

「、っ!」



かく言うリョーマもシングルス2を控えて、多少なりともピリピリしていた。2人が険悪になりかけたその時、パシャパシャと走る足音が聞こえてきた。



「園田!」



気づいた手塚が足音を振り向くと、すずが青学ベンチに向かって走っていた。見るからに濡れていて、青学メンバーは慌ててすずを屋根の下に迎え入れた。



「園田、大丈夫かい?」

「戻ってくる途中で降られちゃって...あ、河村先輩は多分今頃診察中です。少しかかりそうだったので先に戻るように言われて、1人で戻ってきました、っわ!」



スミレに報告するすずの視界が、突然真っ白になった。驚いて声を上げたすずだったが、すぐにその白の正体がタオルだと気づいた。



「髪濡らしたまんまいると風邪ひくぞ!」

「も、桃?ちょ、イタイイタイ待って!」



タオルをかけたのは桃城で、そのままわしゃわしゃとすず髪を拭い始めた。しかしすずの髪はポニーテールに結われていたので、そのままでは意味がない。言われてそれに気づいた桃城は、手を止めて髪を解き、また慣れた手つきで髪を拭い始めた。



「桃、慣れてるな」

「たまに妹の髪やらされるんスよ」

「...妹?」



桃城の大石への返答に、小さい子扱いに敏感なすずが反応した。桃城に文句を言おうと顔を上げかけたすずだったが、「大人しくしろ」と怒られ、渋々従った。妹で慣れているだけあって桃城の手つきは優しくてすずは段々心地よくなってきたが、しかしやはり小さい子扱いをされているようで心境は複雑だった。


「あ、大石先輩、菊丸先輩。試合お疲れ様でした!おめでとうございます」

「うん、ありがと!」

「園田もタカさんの付き添いお疲れ様」



スコアボードを見てダブルス1の勝利を知ったすずは、頭上のわしゃわしゃが一段落してから大石と菊丸を労った。あとはシングルスの3試合。うち2勝したほうが、地区予選を制する。雨が止んだらシングルス3、海堂vs神尾の試合が始まる。


20161030

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