「あの、乾先輩」

「どうした園田」

「いえ、その...これ、何ですか?」



ランキング戦も終わり、通常練習に戻った青学テニス部には少し変化があった。まず、惜しくもレギュラー落ちした3年の乾が、選手と兼任してトレーニングコーチになったこと。主に今まで採集してきたデータをもとに最適な練習メニューを作成し、それをレギュラー陣に実践させる事が乾の仕事で、もちろんすずはマネージャーとしてそれを補佐するようにスミレから指示されていた。今日はその練習初日で、早速乾が用意したという備品が入ったダンボールを運ぼうとしたすずだったが、その重さに驚いた。



「重っ...!?」



ドリンクやボールのカゴなど、重いものを運ぶのには慣れている自負があったすずだったが、如何せん重かった。何が入っているのか、スミレに聞いても分からない、乾に聞いても後のお楽しみとしか教えてはくれない。



「っし!根性だ、すず!頑張れ!」



ぱちんっと自分の両頬を叩いて気合を入れ直すと、すずは一気にその謎のダンボールを持ち上げにかかった。





しかしどう頑張っても持ち上がらないダンボールに負け、すずはなんとか引きずってダンボールを台車に載せ、コートまで運んだ。ズルした感は否めないが、なんとか運びきったことに達成感を覚えたすずは、ふぅと小さく一息ついて、今日も今日とて多いギャラリーに目を向けた。



「桜乃ちゃん、朋香ちゃん。今日も応援?」

「はい!」



フェンスのそばに並ぶ2人は、スミレの孫娘の竜崎桜乃とその友達の小坂田朋香。2人共1年生で、聞くところによれば、朋香はリョーマファンクラブの会長らしい。ファンクラブがあること自体に驚いたすずだったが、1〜3年生にかけて満遍なくそれなりの人数がいるらしいことにさらに驚いた。



「ファンクラブさんは熱心だね」

「当然です!リョーマ様の勇姿は1シーンも逃すことなくこの目に焼き付けなくちゃ!」

「ちょ、ちょっと朋ちゃん!」



元気すぎるほど元気な朋香の勢いに、桜乃が恥ずかしそうにやんわり止めに入った。そばにいた堀尾たち1年生トリオはすこし引き気味で、そんな1年生達の様子が妙に面白く映ったすずは、小さく笑い声を漏らした。



「応援、選手はみんな嬉しいと思う。ありがとう。でも少し控えめにね」

「はい!」



朋香の元気な返事に苦笑いつつ、手塚の号令を受けてすずも集合して手塚・大石の隣に並んだ。



「今更言うまでもないが、都大会もついに目の前まで迫ってきた。今回の校内ランキング戦で決定したレギュラー8名は、都大会まで団体戦を戦い抜く」



スミレが部員に向かって話し始めると、みんな少し引き締まったような表情になって、すずは少し嬉しくなった。



「どの学校も年々レベルが上がってきているからね。決して油断するんじゃないよ。以上!」

「では練習を続行する。レギュラーはA・Bコートへ、それ以外はCコートに入ってサーブ&ボレー!」

「「「はい!」」」



手塚の号令で全員が動き出すと、スミレがレギュラー陣に待ったをかけた。



「お前達レギュラーには、この男にとっておきの練習メニューを頼んでおいた」



ニヤリと笑ってスミレが示す先にいたのは、他でもない、トレーニングコーチの乾だった。乾は軽く挨拶するとすずを呼び、例のダンボールを持ってくるように指示した。言われるまま台車こどダンボールを運んで引きずってコートに下ろすと、分かりやすく重そうな音がした。



「よいしょっ...!」

「い、乾?なんだよそれ」



見るからに重そうなダンボールに、レギュラー陣の顔が引きつった。何人かすずに縋るような目線を送ってきたが、すずとて中身を知らないので曖昧に笑うしかなかった。

しかし開けてみると中身はパワーアンクルとボールで、別段奇妙なものは入っていなかった。特にボールはすずも準備を手伝ったものだったので、なんだと拍子抜けしつつ、乾に言われたとおり、すずはレギュラー陣にパワーアンクルを配った。



「そのパワーアンクルには250gの鉛の板を2枚差し込んである。両足に1kgの負荷がかかるわけだ」

「ふーん...大した重さじゃないっスね!」



全員がパワーアンクルを装着し、それぞれ足踏みをしたりジャンプをしたりしているが、桃城が言うようにそんなに負荷がかかっているようには見えなかった。しかしあの乾がやることなのだ。きっとおいおい効果が現れるに違いない。



「さらに赤・青・黄色のカラーコーンと、同じく赤・青・黄色に溝を塗り分けたボールをたくさん用意した」



簡単に言えば、出されたボールの色を瞬時に見分けて同じ色のコーンに当てる、動体視力が試されるトレーニングだ。



「ふんふん、にゃるほどね!」



早速名乗り出たのは動体視力といえばこの人、と青学では一番に名前が上がるであろう菊丸だった。楽しそうにラケットをクルクル回して、やる気は十分。隣のコートに入ったリョーマもどことなく楽しそうな表情を浮かべていた。



「ミスが出たら終了だ!ではスタート!」



コールと同時に乾とスミレがボールを出し始め、トレーニングが開始された。すずの位置からでは、というかきっと菊丸やリョーマと同じポジションにいても、球の溝の色なんて判別できそうにない。まして同じ色のコーンに打ち返すなんて、絶対に無理だ。色を塗っていた時はカラフルで可愛いなぁなどと呑気に思っていたが、打球となって向かってくるものを見るのはまるで違う。動いているテニスボールの溝なんて、空中をさまよう細い糸のようなものだ。



「赤!」

「わぁ、英二先輩すごい!」



しかし流石青学レギュラーとでも言うのだろうか、菊丸は軽々と色を見分けて的確なコーンへと打ち返していく。思わず拍手をしたすずの隣で、大石と不二も感心していた。



「流石だなぁ。動体視力に関して、英二の右に出るやつは、」

「いや大石。いるよ、ほら」

「え?」



不二の目線の先を追えば、隣のコートで同じく的確に球を打ち返すリョーマがいて、すずは思わずため息をつく。この1年生は何者だ、バケモノかと、本人に聞かれたら睨まれること間違いなしな心の声が、思わず口から漏れそうになった。



「2人ともすごいなぁ...ん?」



何球か返したところで、突然菊丸とリョーマの動きが鈍くなった。何かあったのかと一瞬心配になったすずだったが、すぐに2人の足についたパワーアンクルの存在を思い出した。



「乾先輩の狙いはコレか!」



良くもまぁこういったメニューを思いつくものである。すずは乾の頭の中はどうなっているのかと、本気で気になった。



「赤!」

「英二、それ青じゃない?」

「え?ウソ」



赤いコーンにボールを返そうとした菊丸のリズムが、乾の指摘に惑わされて狂った。案の定菊丸は打ち損じてミス、終了ということになる訳だが、転がってきたボールを見ると、菊丸が最初に判断したとおり、球の溝の色は赤だった。



「あー!なんだやっぱ赤でいいんじゃん!乾、ひっでーよ!フェイント!」

「体力が落ちれば判断力も鈍る!」



一瞬のうちにボールを見極めなければならないテニスにおいて、判断力はとても大切な力であり、それと同時に試合中に一番鈍りやすい力でもある。パワーアンクルでいつもより疲労させ、その状態でいつもより判断力が求められる状況に追い込む。ストイックだが効果的な練習メニューだった。



「そして言い忘れていたが、ミスした者には」



今の青学が勝ち上がるために、何が必要なのか―――今までチームメイトを誰より観察し、データを集めてきた乾だからこそ編み出せた、最も効果的なメニューなのだ。流石は乾、流石は3年生だ。感動しながら乾を見つめていたすずの目に、しかし次の瞬間なにやら奇妙なものが映った。



「乾特製野菜汁を飲ませてあげよう」

「やさい、じる...?」



感動の波がピタリと止まり、すずのあまり豊かでない胸にざわめきが満ちた。しかしざわついたのは何もすずの胸だけではない。乾の手にある深緑色の液体を見た、つまりA・Bコートにいるレギュラー陣+スミレも同じく、いやそれ以上にざわついた。



「な、何が入ってるの?それ...」

「食べ物だ。心配するな」



心配するな、なんてそんなの無理だとすずは思った。だって“汁”なのだ。“ジュース”とも表現できたはずなのに、敢えての“汁”。加えてあの色、そして愉しげな乾の表情。心配しかできない。



「ちゃんと味も調整してある」



笑う乾から、菊丸はまさに恐る恐るといった様子でコップを受け取ると、ぐいっと一気に飲み干した。そしてみんなが心配そうに見つめる中、2秒ほどその場に立ち尽くした。しかし次の瞬間、



「ぬぁぁぁぁぁぁあ!!!」



悲鳴をあげてコートの外へ物凄いスピードで飛び出していった。


20161007

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