先の大山の一件で、ソラ姉と京子ちゃんのお兄さんの仲が縮まったんじゃないだろうか。
俺はそんなふうに思っていた。
ソラ姉を迎えに行ったあの時。二人の纏う空気はなんだかとても特殊なものだった。甘い感じのその雰囲気に、これって上手くいったんじゃないのかな、なんて、なんとなくだけど俺はそう思ったのだ。
「あ、お兄さん。おはようございます」
朝っぱらからシャドーボクシングをしながら歩くその背中に声を掛ける。元気というかなんというか、朝から落ち着きのない人だ。これで京子ちゃんのお兄さんって言うんだから驚きだよ。
お兄さんが振り向いて笑顔を見せると、途端に隣にいたソラ姉も笑顔になった。分かりやすい。
「沢田!やっとボクシング部に入る気に」
「二日前に断ったばっかりですよね!?昨日の今日でそれはないですから!」
「笹川君、おはよう」
「よう、沢田姉!元気そうだな、良かったぞ!」
「ありが……え?」
ソラ姉の戸惑うような声。途端、俺の体も強張る。
何だか今聞いちゃいけないような言葉が聞こえた。ような気がする。確認するようにソラ姉の方へと視線を投げると、完全に固まっていた。辛うじて笑顔を作ってはいるのだが、魂が抜けている。意識が完全に飛んでるんじゃないだろうか。え、これやばいんじゃないの。
「さて!のんびりしていると遅刻するぞ!じゃあな!」
「は、はい。じゃあまた」
返事をしないソラ姉の代わりに答えると、こっちの状況等微塵も気づかずにお兄さんはとっとと立ち去ってしまった。
姉さん事件です
通学路に取り残された俺達は無言で立ち尽くしていた。次々と生徒達が追い越して行くが、動く事が出来ない。動いたら死ぬんじゃないかと思うくらい、その場の空気が張り詰めていた。
「沢田……あね?」
ぼそりとソラ姉が呟く。いつもよりずっと低いその声に思わず肩が揺れる。怖い。色んな意味で怖い。
「私の聞き間違いかな」
「いや、俺も沢田姉って聞こえたけど」
「…………」
嘘をつくのもあれなので、怖いけど素直に答えてみる。するとソラ姉は俯き、顎に手を当てて考える風な仕草を見せた。それが妙にのんびりとした動きでめちゃくちゃ怖い。
「なんで沢田姉?」
「お、俺に聞かれても……」
「なんでツナは沢田なのに、私は沢田姉なの?」
「ソラ姉が俺の姉さんだから沢田姉なんじゃない?」
ソラ姉が口をへの字に曲げた。
分かってる。本当は、ソラ姉が何を言いたいかは分かってるよ、俺だって。でもさ、それを言った所で俺にはどうしようもないし、大体俺の方がどういう事なのか聞きたいくらいなんだよ。姉さんの気持ちも分かるよ、うん、本当に。でもさ、こればっかりは俺に責められても
「私の方が笹川君と付き合い長いのに、なんでツナを沢田弟って呼ばずに私が沢田姉なの」
あうち。
「わ、分かんないよ。俺が知る訳ないじゃん」
「私よりも前に笹川君と会ってたとか」
「いや、それって俺が小学生の時に会ってたかって事だろ。ないよ!」
「じゃあ何で!?」
悲壮感漂う表情でソラ姉が悲鳴に近い声を上げた。多分俺に聞いてる訳じゃないんだと思う。誰でも良いから答えてください。そんな感じの雰囲気だ。
流石にこれは可哀想かもしれない。
俺と京子ちゃんに置き換えて考えてみよう。沢田君って呼んでた京子ちゃんが、ソラ姉と知り合った途端、俺の事を沢田弟君と呼ぶのだ。うわ、やだ。何ソレ。ちょっと考えただけでへこむんだけど。まあ、京子ちゃんは俺の事ツナ君って呼んでるからありえない話なんだけどね。
……って、あれ?待てよ。
「ちょっと待ってソラ姉」
「何!?私に何か落ち度があった!?」
「いや、落ち度って言うか、姉さんもお兄さんと同じじゃないの?」
ソラ姉が意味が分らないと首を傾げる。
「だってさ、姉さんもお兄さんの事は笹川君って言ってるけど、京子ちゃんの事は京子ちゃんって呼んでるじゃん。それと同じじゃない?」
「えっ」
そのまま宙に視線を漂わせ、口をぽかんと開けるソラ姉。意識が飛んでるのか、考え込んでいるのかよく分からない。
のんびりと時間は過ぎて行く。
「ええっ!?」
「うわあ!何だよ!」
黙ったかと思えば、急に困った表情で叫ぶもんだから、俺は飛び跳ねてしまう。こういう突拍子もない行動は本当やめて欲しい。マジでやめて欲しい。怖すぎる。
そんな俺の気持ちも知らずに、ソラ姉はおろおろとした表情で攻め寄って来た。
「待って、ええ!?そんな、困るんだけど!」
「困られても」
「だって、私そういうつもりじゃないし!」
「だから、お兄さんもそういうつもりじゃないんじゃない?」
っていうか、何がそういうつもりなのか分からない。でもまあ、お兄さんも何も考えてないでの行動だと思うから、嫌われてるんじゃないかとかそういう心配はしなくても良いと思うんだけどね。
「どっ……どうしたら良いの」
心底困っているような声色で、ソラ姉が呟いた。助けてあげたいとは思うけど、俺にはどうしようもない。こればっかりは姉さんが頑張るしかないのだ。
「沢田姉って呼ばないでって頼んだら?」
とりあえずそう言ってみると、ソラ姉は視線を左右に漂わせながら、段々と涙目になっていく。え、なに。何で泣くの。俺酷い事言ってないよね!?
「だって、それ、名前で呼んでって言ってるようなものじゃない」
「へ?」
確かに。考えてみればそうかも。多分お兄さんは俺の事を沢田呼びにしたら、ごっちゃになっちゃうからソラ姉の事を沢田姉と呼んでる訳で。沢田姉って呼ばないでって事は、区別がつくように名前で呼べと言っているようなものな訳だ。
「ツナの事を名前で呼んで私を苗字呼びして、何て言うのも馬鹿みたいだし。っていうか、ツナが名前呼びなら私も名前で呼ばれたい」
「う、うん」
じゃあそう頼めば良いじゃん。とも言えない。俺には分かるのだ。ソラ姉が躊躇する理由が。痛いほどに。
「……すっげえ恥ずかしいね」
俺が呟くと、ソラ姉はこくりと頷いた。