息をしているだけでお金がかかるのは誤算だった。シェアハウスの家賃と最低限の食費、たったそれだけなのに支給されたお金は底を尽きそうだった。
私は今、夜の仕事で生きている。
月に一度、手渡しでもらえる給料は家賃分を差し引いてもそれなりの額が残った。ご飯は気のいいお客さんが食べさせてくれるし、はじめて友達と呼べる女の子もできた。シェアハウスにいる頃が嘘のように私はちゃんと生きていた。
タバコとお酒の匂いがすっかり私の匂いになってしまった。夜の女と呼ぶにはまだ幼いけど、ここは私に合っている。
箱の中は遊園地みたいにキラキラしている。もう何か月も働いているのに、店に来るたびそう思う。更衣室では女の子達が丁寧に着飾っている。ドレスに着替えた子らがメイクを施しながら、
「今日お客さん呼んだ〜?」「この間の人、顔出すって連絡あったけど〜」「嘘―、そっちヘルプで行ってもいい? あたし今日、お茶引きかもしれない」
なんて会話をしていた。いつもの光景だ。
「おはようございます」
挨拶をしながら更衣室へ入ると、メイコがこっちへ駆け寄ってきた。お店では一番仲の良い女の子だ。
「ナナミ、今日VIPルームに行くって聞いたけど、本当?」
「あー、そうみたい。ウチの会長が懇意にしている人が来るって聞いたけど」
「それって、ノストラードの若頭だよね?」
「え、どうだろ。ノストラードの人なの?」
「会長と仲が良い人なら、そうだと思う」
「ふぅん……」
ノストラードの若頭というと、VIPルームになっている個室へ入っていくのを何度か見かけたことがある。店の奥まった所にVIPルームへ続く扉があって、いかにもといった風貌の男数名とお店のナンバーワンを引き連れて消えるのだ。
彼が通路を歩くと、フロアにいる女の子たちの視線が彼を追った。キャストが見惚れるほどの綺麗な顔。まっすぐ伸びた背筋。足音を殺して歩くのは彼の癖だろうか。
それにしても、若頭の姿は思い出せるのに、肝心の名前が思い出せない。誰かに教えてもらうまでもなく、お店で働いていれば一度は耳にした事があるはずなのに。
「若頭の名前って何だっけ?」
「嘘でしょ? ジョーク?」メイコは顔にありえない≠フ文字を貼り付けて言った。
「嘘じゃないよ、本当に分からないの。私、あの人に付いたことないから、お客様ノートにも情報書いてないし」
「付いたことなくても、普通は知ってるわよ! 覚えなさい、クラピカさんよ、ク・ラ・ピ・カ! はい、言ってみて」
「クラピカさんね。クラピカさん、クラピカさん。うん、覚えた。ありがとう」
まだ何かを言いたげなメイコを無視して、自分のロッカーを開きながら、今日のドレスを選ぶ。赤、黒、白、青、緑、黄色、プリンセスのクローゼットみたいに沢山のドレスが並んでいる。でもプレゼントしてもらったものよりも、自分で買ったドレスの方が圧倒的に多い。それは、この仕事を気に入っているからで。
私が手にしたのはシンプルな黒のドレスと白のドレスだった。どっちにするか悩んでいると、メイコがロッカーの中を覗いた。
「ねぇ、こっちの黒にしたら? ゴールドの刺繍が入っているやつ。クラピカさん身に着けている物のセンスが良いから、シンプルで無難にまとめるよりこっちの方が好きそう。代わりにアクセをシンプルにしてさ」
「じゃあ、そうする」
メイコのセンスは私よりずっと良いから信頼できる。
「それにしても、なんでナナミが呼ばれるんだろうね。今日ってワン休みだっけ?」
ワン、とは私達の間で通用されているあだ名だ。ナンバーワンはワン、ナンバーツーはツー、上を取っただけの分かりやすいあだ名だけど、彼女たちも喜んで使っている。もう長いことワンとツーは不動の一位と二位だから、あだ名が肩書というのは名誉あるものなのだろう。ちなみに三位から下は変動が大きいので、普通に源氏名で呼ばれている。
「ワンさんならいつも通り出勤すると思うよ。お店のメルマガの出勤情報に名前載ってた」
「呆れた。キャストでメルマガ登録しているのって、多分ナナミくらいよ」
「誰が出勤か事前に知っていた方が便利なのに」
「ナナミって変なとこで真面目だよね」
「そう?」
「そうよ。まあ、そこが良い所だと思うけどね」メイコは肩をすくめた。
着々と準備を進めて行く傍らで女の子たちの視線を感じていた。どうして私が呼ばれるのかみんな疑問に思っているらしい。今日はワンさんもツーさんも出勤になっている。VIPルームの対応なら彼女たちに任せる、というのは女の子達の間で当然のルールだった。もちろん指名がある例外を除いての場合だけど、そもそもVIPルームに入る人で彼女達以外を指名する人が滅多にない。
だから、ランキングに名前が載る十位以内に入ったり入らなかったり、中途半端な場所でふらふらしている私を指名してきたのは、青天の霹靂である出来事だった。
値踏みをするような鋭い眼光に、一瞬、中へ入るのを躊躇った。ミニバッグを持つ手に力が入る。黒服が去り、完全に扉が閉まるとVIPルームには不自然な静けさが訪れた。遊園地の愉快なBGMが遠くに聞こえる。
「ナナミです、よろしくお願いします」声を振り絞り、お辞儀をした。
私がここに呼ばれたのは理由があるからに違いない。それがどんな理由であれ、私を選んでくれた人を失望させる事はしたくない。
顔を上げてできる限りの笑顔を見せると、クラピカさんを纏う空気が和らいだ気がした。
「座って。先に話しておく事がある」
「はい」
隣に座るような雰囲気ではなかったので、ひとまず向かいの席に腰を下ろす。
「今回ナナミを指名した理由は、ナナミがこの店で一番、話を聞くのが上手いと聞いたからだ。じきにとある男が来る。ナナミは彼の話を聞くことだけに専念してほしい。私への接客は不要だ」
「貴方がそうしてほしいと言うなら、そうしますけど」
「相手は政界で名のある人物だ。あの若さでのし上がっただけにしたたかな面もあるが、基本は明朗闊達でさっぱりした人物だ。接客に不安があるなら安心して良い、多少の失敗も笑って許すタイプだ。話はじめると延々と喋っているのが厄介だな。ナナミはなるべく持ち上げて彼の気を良くさせてほしい。今日の所はそれで」
「というと、次もあるって事ですか?」
「彼に気に入られるようなら」
「……あの、何か目的が?」
クラピカさんは押し黙った。一瞬、顔を歪ませて、首を横に振る。拒絶だ。ああ、聞いちゃいけなかったか。と思った所で時間は巻き戻せない。彼の真意を知っていた方が役に立つのではないか、そう考えた上での質問だったけど話を聞くのが上手い≠サれだけで買われた私は、文字通り話を聞くだけにしておくべきだった。
「出過ぎた真似をして申し訳ありません、クラピカさんの言うように話を聞くことに専念します。他に何かあれば、こっそり教えて下さい」
「すまない」
「いえ……」
軽率に尋ねてしまった私に非があるのに、クラピカさんは本当に申し訳なさそうに謝った。
「個人的な事だ」
「そうでしたか」
それだけ聞ければ十分。仕事だろうと個人的な事だろうと踏み入る権利はない。
*
上等なスーツを着た若い男性をクラピカさんは「先生」と呼んだ。三十代の中頃だろうか、きっちり整えられた黒髪が若々しさを助長して、二十代の後半にも見える。クラピカさんの言った通り快活な人物のようだ。私も彼を先生と呼びながら、話の所々に気を良くさせる合いの手を入れていく。
先生の話は確かにどれも自慢話だけど、私の口から出る言葉は全て本当だった。勇者が魔王を倒して世に平和が訪れるような、海賊が数多の試練を乗り越えお宝を手にするような、寝物語に聞かされる冒険談のように心が躍った。
先生の話を聞きながら、人が好きだと改めて思った。
生きている人は美しい。
頭のてっぺんから手足の先まで、豊富な酸素を含んだ鮮血が勇敢に駆け巡っている。日々の出来事に心を揺れ動かし、悲しみに明け暮れる日があっても、前を向き次へ進んでいく強さ。私にはない魂の輝き。
与えられた任務は完璧に遂行できたらしい。
「ナナミちゃん、またよろしくね」
「先生のおかげでとても良い夜になりました。またお待ちしています」
先生は私の肩を叩いて車に乗り込み、中からにこやかな笑顔で手を振った。私とクラピカさんは発進する車に頭を下げて、去ったのを確認してから頭を上げた。
「良い働きだった」クラピカさんがホッとした笑みを向けながら言った。
「お役に立てて何よりです」私も笑顔で返す。
「あの話を純粋に聞けるのは才能だよ。私が初めて聞いたときは、退屈さのあまり目を開いたまま寝てしまう所だった」
「クラピカさんも面白い冗談が言えるんですね」
「私が冗談を言う男に見えるか?」
「見えません」
「即答か。ユーモアの欠片もない堅物でつまらない奴だと思っているのなら、認識を改めた方が良い。後々、痛い目を見るぞ」
「……えっと」
「冗談だ」
「あ、はい……」つまらない冗談だと思ったのは胸に秘めておこう。
「冗談はさておき、近々また彼を連れて来ることになる。ナナミさえよければ次もお願いしたい」
「私で良ければ、よろしくお願いします」
「ありがとう。では、私の連絡先を教えておこう。直接連絡が取れた方が早い」
クラピカさんは上着の内ポケットからメモ帳とペンを取り出した。サラサラと連絡先を書き綴る。
「無くさないように」そう言って手渡された紙をミニバッグの中へしまう。
「ありがとうございます。絶対に無くしません。後でこちらからも連絡先を送りますね」
「わかった。今月の出勤日も一緒に教えてくれ」
「了解です」