花冷えにめまい
 紅茶入れるね、とソファーから立ち上がった。私の飲みかけのティーカップには冷めた紅茶が半分も残っている。クラピカの話を聞きながら飲むつもりが、口にするタイミングを見失い、すっかり冷めてしまったのだった。
 クラピカは、はっと我に返った顔をして「すまない、頼む」と言った。声はかさついていた。
 
 部屋の片隅にある、吊り棚付きのミニキッチンはなかなか不便だ。本来足元にあるはずの収納スペースは、扉が外され小型の冷蔵庫が埋め込まれている。冷蔵庫から物を取り出すときにいちいち屈まないといけないのもマイナスポイント。この部屋は生活をするための部屋じゃないから、最低限の物があれば充分だけども。

 吊り棚からクラピカ専用に置いてある青いカップを取り出した。私が使っているものと色違いで、開業祝いにクラピカが持ってきてくれた二客一組のカップだ。歴史あるブランドの品だと言っていたけど、ブランド物には疎いので価値がよく分かっていない。ソーサーは一度使ったきり、棚の奥で眠っている。
 個包装の紅茶パックを二つ用意して、ケトルの乗ったコンロに火をかける。その火を眺めながら、
「やっぱり、ウォーターサーバーくらいは欲しいかも。水物なら、クラピカの所で取り扱っていそうだし。」
 なんて考えていた。
 
 私たちのいる部屋は、私が事務所として使っている賃貸マンションの一室だった。ワンルーム18uの独身向け部屋で、三階より上の階はファミリー向けの大きな部屋になっている。古くも新しくもないマンションだから、ときどき上の階からパタパタと足音が聞こえてくる。普通に生活を送っていれば気にならないけど、私の部屋は無音でいることが多いので、やたら響いて聞こえる。でも私はその音が嫌いじゃなくて、作業の手を止めて耳をすませる事も多い。
 
 私は仕事柄「生」に飢えていたので、生を感じるものが好きだった。
 
 ベランダから見える大規模の分譲マンションもその一つ。
 
 都会のビル群を思い出させるマンションは、マンションに住んでいる奥様方に不人気だ。「あれのせいで日当たりが悪くなって、洗濯物が乾かない」と、エントランスで話していたのを聞いたことがある。元々西向きに作られているマンションだし、日当たりが悪くなるのも着工の時点で分かっていただろうに、あれもこれもと文句を言い合う姿は、人間らしくて面白かった。でも、せっかく干したお洗濯物の乾きが悪いと嫌な気持ちになるのは、私も同感。

 そんな、ちょっとだけ迷惑がられているマンションはベランダから一部を見ることができた。縦にも横にも長いマンションで、ベランダを開けると辺りの風景よりも先にマンションの廊下が見えた。
 肌を刺す寒い日は、鉄筋の武骨なマンションが凛と佇んでいる様に身を引き締められ、焼けつくような暑い日は、熱さで陽炎のように揺らめいて見えるのを、ずっと眺めていられた。
 あの中で人々が生活しているのが不思議だった。大きな四角い建物の中で、沢山の人が生きているとは到底思えなかった。
けれども日が落ちてくると、マンションは夕陽を浴びて黄金を縁取り、次第に影を濃くして、人工の灯りをともすのだった。

 急かすような甲高い音に、私は慌ててコンロの火を止めた。
このままカップにお湯を淹れたら、口の中を火傷するかも。ちょっと冷ましてから注ごうと思い、シンク台に腰を預けてクラピカの様子を伺う。

 お客さん用の三人掛けソファーの真ん中で首を垂れている。あらかじめ脱いでいたスーツのジャケットは来たとき同様、クラピカの腿の上にあった。流れてきた髪に隠れて表情は見えない。まるで叱られる事が分かっている子供がしゅんと反省しているみたいに、大きな身体が小さく縮こまっている。ここにクラピカを叱る人なんていないのに。クラピカは他人にも自分にも厳しい。

小さなクラピカが膝を抱えて座っているのが見えた。何も聞きたくないと、腕に顔を押しつけているのを、大きなクラピカが容赦なく怒鳴っている。
子供なら、叱られて反省して「次は気を付けようね」って言ってくれる大人がいるから「次」への進み方が分かる。でもクラピカには言ってくれる人がいない。  
だから、次はどうしたらいいか分からないまま、叱られた悲しさだけを残して進んでしまう。クラピカは多分、そうやって生きてきた。

悪循環、の三文字が頭に浮かんだ。しかし悪循環を断ち切る力が私にはなくて、仮にあったとしても、私とクラピカはそういう関係じゃない。
私は逃げるように背を向けた。自分のカップに残っていた紅茶をシンクに流して、二つのカップにお湯を注ぐ。ティーパックを浮かべて、色が滲んでいくのを待つ。私の紅茶に対する知識はほぼ0だ。お湯に色が付いたらティーパックを引き上げて終わり。ティーパックを三角コーナーに棄てながら、
「お砂糖は?」と尋ねると、ちょっとの間の後に返事が返ってきた。
「少しだけ」
「わかった」
少し、の分量が分からないので角砂糖を一つだけ入れおく。クラピカが甘い物を欲しがるって珍しいなぁ、と思いながらティースプーンでぐるぐる混ぜていく。あっという間に砂糖が溶けて、クラピカの紅茶は無事に加糖紅茶になった。
「お待たせ」
湯気の立つカップ二つをソファーに挟まれたガラスのテーブルの上に置くと、クラピカは顔を上げた。酷く疲れた顔だった。

「ありがとう」
「どういたしまして。というかごめんね、クラピカが来てからすぐ出せばよかった。喉乾いたでしょ」
「先に事の顛末を話したいと言ったのは私の方だ。気にしないでくれ」
「そう? ならいいけど……」
 
 ふと目を向けたベランダからマンションが橙色に淡く輝いているのが見えた。壁にかけられた時計は気付かないうちに何周も回っていて、短針は夕方を指している。
 完全に日が落ちるまで、もう数時間ほどかかる。冬を終えたばかりの季節は、日が暮れるのもゆっくりだ。寒かったり暖かかったりを繰り返しているのに、地球の速度はいつの日も変わらず正しく動いている。
 
 もっとゆっくり進めばいいのに。クラピカが、悲しみを武器にできる大人になるまで、待ってあげればいいのに。ちゃんと次へ進めるようになれば、私の罪の意識も軽くなる。
 
 私はこれから、クラピカに酷い事をしようとしているのだ。
 これが条件とは言え、あからさまに弱っている人間に追い討ちをかけるのは気持ちのいいものじゃない。
「また今度でもいいよ」の言葉をぐっと堪える。また今度がいつになるか分からないし、私は私で、自分の事を知りたかった。

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