あの夜から暫くして、先生が一人で店に訪れた。指名をもらい、いつものVIPルームで彼の姿を目にして、私はとても驚いた。すさんで、痩せて、前よりもギラギラした瞳。相変わらず上等なスーツを着ているが、溌剌とした健康さを失った主同様にずいぶん草臥れている。
「先生、こんばんは」
不審に思いつつも、いつものように声をかけた。
「お久しぶりです。変わらずお元気にしていましたか?」
先生の隣に座る。全身を舐めまわす視線が気持ち悪い。私は内心とても戸惑いながら、アイスペールに掛けられているトングを手にした。
「お酒作りますね。今日は水割りとストレートどちらにしますか?」
先生の返事はない。ジッと私を見ている。
「……先生?」
先生はうすら寒い笑みを浮かべながら、ようやく沈黙を破った。
「クラピカとはどこまでいった?」
「は?」
想像もしていなかった言葉にトングを落としそうになる。
「僕の部下が君達二人で歩いているのを見たと言っていた。あの夜だ。なぁ、ナナミちゃん。クラピカとはどこまでいった?」
「質問の意味が分かりません」
私は氷をグラスに入れる。ひとつ、ふたつ。先生は氷が少ない方が好みだ。
「君は鈍いな。言葉を変えよう、セックスはしたのか?」
「なにを、言っているんですか」
ドクン、ドクン。心臓が大きな音を立てる。だらだらと巡っていた血液が勢いよく巡りはじめる。
「話をしていただけで、その他は何もありません。クラピカさんは私に一切触れようとしませんでした」
「その口ぶりだと、君は触れてほしかったみたいだねぇ」
「……」
セックスをするために触れてほしかったわけじゃない! と、心の中で叫んだ。
舌に乗せる勇気がなかったわけじゃない、あの夜の事を誰かに話すつもりはなかった。
「まぁいい。クラピカと関係を持とうと構わないが奴に依存するのはやめろ。一時の情欲に流されるな。君の力が失われるぞ」
「どういうことですか?」
「君について調べたんだよ。君の母親の行方、神と崇められる奇跡の力、死の恐怖と呼ばれるものの正体を」
一般には機密事項とされていると言っていた念能力、それが私の力の正体だった。先生ほどの人になると機密事項を知らない方がおかしいのかもしれない。
「詳しく教えて頂けますか」
力についてはどうでもいい。どう利用しようと、死に追いやるだけの不必要な力だ。
「何が知りたい?」
トングをもっと手に力が入る。
先生は私の手を上から包み拳に、一本一本指を解いた。触れられた箇所から力が抜けていく。トングが床に落ちる。
ダメ、流されるな。
深く深呼吸をして、私は強く言った。
「お母さんの行方を」
「……そうか、母親か。そうだよな。君の唯一の拠り所で、もう一人の神と崇められた女性。いいぞ話してあげよう。それではナナミちゃん、記憶力を試すテストの時間だ。君のお母さんはいつおかしくなった?=v
「お母さんは……」
お母さんがおかしくなったのは、お父さんが死んでから。
神様を信じるようになった。
「君のお父さんはなぜ死んだ?=v
お父さんはどうして死んだっけ。急にいなくなった。
「ゆっくり思い出してごらん。君は知っているはず=v
――潰された車の下から、原形を留めていない四股が不自然に飛び出て、助手席からは長い髪の毛が見えていた。横転した車の窓ガラスは粉々になっている。車内は窓ガラスを突き破って入ってきたコンクリートブロックや草木や私が抱いていた猫、お父さんの携帯電話、お母さんのバッグ、色んなものが洗濯機で回されたみたいにぐちゃぐちゃになっていた。
「それではもう一度質問するよ? 君のお母さんはいつおかしくなった?=v
どうして今の今まで忘れていたのだろう。
大きな波がぐんぐんと迫ってくる。星も見えない空があざ笑うように晴れ間を見せる。思い出したくないのに、こじ開けられている。
不意に頭の中で声がした。それは私の声だった。
――嫌なことから目を背けるように、何も見たくないと思いながら瞼を下ろせば、余計なものは見ずに済む。……生きている人は美しい。頭のてっぺんから手足の先まで、豊富な酸素を含んだ鮮血が勇敢に駆け巡っている。
「泣かないでナナミちゃん」
クラピカと同じことを言って、クラピカよりも大きくてゴツゴツした指が乱暴に目尻を拭った。
「大丈夫、僕が君の側にいよう。クラピカの求めている物もちゃんと彼に渡しておく。ナナミちゃんは何も心配することなく僕と一緒にいればいい=v
考えるのを放棄して、寄りかかりたくなる。
でもそうしたら、クラピカは悲しまずにすむ?
「先生、クラピカの欲しいものって」
「ああ。緋の目か。ナナミちゃんは知らないんだっけ? ノストラード氏の娘は人体収集癖があって、クラピカは僕が持っている世界七大美色である緋の目を欲しがっているんだよ。おおかた娘の方に賄賂を送るつもりだろう。あの若さで若頭まで上り詰めたんだ、地盤は固めておくに越した事はない」
私が先生に寄りかかれば、クラピカは欲しい物を手にできる。
「ナナミちゃんも緋の目を見てみたい?」
私は首を横に振った。
「目なんて、見ても面白くないです」
「それじゃあ他の物を見せてあげようか。僕はこう見えても美しい物を集めるのが趣味でね。美術館に専用のトランクルームを持っているんだ」
「綺麗な物なら見てみたいです」
「君ならいつでも案内するよ」
「ありがとうございます」
「それじゃあナナミちゃん契約しよう=v
先生が手を出した。
不思議とその次にやる事は知っていた。先生の手を握って「はい=vと一言、言えばいい。
これでいいのかなぁ、と頭の片隅でぼんやり考えてみるけど霧がかかって上手く頭が回らない。
まぁいいか。考えるのが億劫になって、手を伸ばした。
――穴の中から声がする。本当にそれでいいの? と誰かが尋ねる。そして声は続けた。
『悲しみに明け暮れる日があっても、前を向き次へ進んでいく強さ。ナナミもあるわ。力強い魂の輝きが。』
砂糖菓子のように、甘く、優しい声。
「ナナミ、そいつから離れろ!」
鋭く飛んできた声に霧が晴れた。視界の中心には、怒りの色を抱えたクラピカが立っている。
「ナナミ」
急かす声に、慌てて先生から離れた。クラピカはコツコツとわざと靴音を鳴らしてこっちへ近づいた。
「は」
先生の乾いた笑みが零れた。
「クラピカ、邪魔だ」
「彼女は関係ない。貴様の事情に彼女を巻き込むのは止めろ」
「お前に口出しする権利はないだろう。決めるのは彼女だ」
「それなら、念を使わずに口説き落とせばいい」
「お前……聞いていたのか」
「聞くつもりはなかったが、虫唾の走る会話が少々気になったのでな」
「悪趣味な奴め」
「お互い様だ」
殺伐とした雰囲気の中で私ができることは何一つなかった。黒服を呼ぶベルを鳴らす事はできたけど、呼んだ所で二人を止められるはずがない。
無言のにらみ合いは暫く続いた。
先に口を開いたのは先生だった。
「交渉は決裂だ」
「構わない。必要な情報は得た」
「血を見る覚悟はできているようだな」
「誰に向かって物を話している?」
クラピカの余裕っぷりに先生は大きく舌打ちをする。
「このままで済むと思うなよ」
「とんだ悪役のセリフだな」
先生はクラピカに向かって唾を吐き、さっさと部屋を出て行った。