深夜も近いというのに夜の街は忙しなく賑やかだ。通りの奥の奥まで続くネオンが夜の影をバリアして様々な色を輝かせている。テナントビルが立ち並ぶ合間から、星も見えない空が悔しそうに地上を見下ろしていた。ここは眠らない街だ。眠りたくない人が作った眠らない街。
「ナナミ」
店長に見送られながらクラピカさんがお店から出てきた。ぼんやりと空を見上げていた私は振り返る。クラピカさんの後ろで、店長がジェスチャーをしていた。『失礼のないように!』たぶん、そんな感じだろう。
「待たせてすまない。行こうか」
「はい」
店長に一礼して、私は彼の後を追った。通りを歩く人がクラピカさんを振り返る。ノストラードの若頭、と至る所から声が聞こえる。
暫く歩いて細い路地に入った。ここだけ時代に取り残されたように小さな店が窮屈そうに身を寄せ合っている。クラピカさんは迷うことなく地下へと続く階段を下って、店の中へ入った。
「ここは?」
見たところ5坪にも満たない狭いお店だった。カウンターの中には誰もいない。オレンジ色の照明が一つ点いているだけ。
「ノストラードの組員に任せているBAR。今夜は早めに店を閉めてもらった。ここなら盗聴器の類も心配ない」
「普通のお店だと盗聴器が仕掛けられているんですか?」
「その可能性もあるという事だ」
言いながらスーツのジャケットを脱ぐと、椅子の背にかけてカウンターの中へ入った。
「飲み物は?」
「それならお茶を」
「酒じゃなくていいのか」
「お店で十分飲みましたので。それに真面目な話をするならアルコールは無い方がいいでしょう?」
「そうだな」
クラピカさんはシャツの袖を腕の途中まで捲ってから、グラスに氷とお茶を注いだ。二人分用意したうちの一つを私に差し出すと、カウンターから戻って隣の席に腰を下ろす。
「いただきます」
「口に合うといいが」
「手作りなんですか?」
「茶葉から栽培している。私が育てた」
「えっ」
「冗談だ」
「……分かりにくい冗談はやめてください」
「次は気を付けよう」
「ぜひそうして下さい」
ちょっとむくれながら口をつけると、クラピカさんは目を細めた。
「だいぶ気が緩んだようだな」
「ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る? ナナミの話しやすいようにしてくれて構わない」
「でも……」
「クラピカ“さん”も必要ない」
「無理です」
「ナナミ」
「……く、らぴか」
「それでいい」
クラピカさんは満足そうに頷いた。
「それで、さっきの話の続きだが」
「はい」
「ナナミの能力を知った以上、あの男はどんな手を使ってでもお前を手に入れようとするだろう。奴の目的は分からないが、今頃何かを始めているはずだ」
私は先生の言葉を思い出していた。
『事務所に戻ってやる事ができた』と彼は言っていた。
「何をしているんでしょうか」
「さぁな。ただ、ナナミの身が危険に晒される可能性がある。私は元々、誰かを巻きもむつもりはなかった。前にも言ったが、これは個人的な事でノストラードは関係ない。大事になるのも困る」
「私はどうするのが良いですか?」
「私が家を用意する。そこに住んでもらい、手の届く範囲にいてほしい」
「そんな愛人契約みたいな……」
「それを愛人契約と定義するならそれでいい」
「お店は?」
「可能なら辞めてほしい。生活に困らない金は渡す」
「クラピカ、それは話が大きくなりすぎている気がしますけど」
「今の所、これが最善策だな」
クラピカが言うならそうなんだろうと思った。考えることを放棄したわけじゃない、私は何も知らないまま生きてきて、それも、知ろうともせずにいたから、クラピカの方がよっぽど知っているのは当たり前だ。民間人を巻き込むと彼の名に傷が付くのかも知れない。先生の中に沈んだ奇妙な陰りも気になる。
「少し考える時間を下さい」
「なるべく早めに結論を出してくれ。何かあってからだと遅い」
「はい……」
クラピカは優しい。どこまでも私の身を案じてくれている。例えその優しさが彼にとって利害関係の中にあるとしても、人に優しくされる事に慣れていない私は寄りかかってしまいそうになる。考えるのを放棄して、目も耳も全部塞いでしまえばいいと、穴の底から誰かが囁く。
カラン、と溶けた氷が音を立てた。
「そういえば」
グラスを持ち上げたクラピカが、私の方をじっと見ていた。
「写真には何が映っていた?」
おそらくこれが一番聞きたかったのだろうと、瞬時に理解した。分かっていたとはいえ、ズキズキと穴が痛んだ。
「そう、写真。話そうと思っていたんです」
嫌な言葉を聞く前に、先に話してしまおうと思った。
私は続ける。
「先生はおそらく銃殺です。身体に銃弾が埋まっていました。黒塗りの車の上で、血を吹き出していました。あくまで先生の死≠フみが写し出されるはずだったんですけど、見えた写真はいつもと少し違っていて」
「どんな風に?」
「先生を殺したと思われる人物も映っていたんです。薄いモザイクがかかったようにぼんやりしていたけど、おそらくあの人は」
続きを言おうとして言葉を飲み込んだ。似ているというだけで確証がない。
「私か」
クラピカは呟いた。
汗をかいたグラスから水滴がカウンターに流れている。小さな水たまりに浸かっているグラスを持ち上げて、お茶を喉に流し込む。「そうです」と同意するには、喉の奥が熱くて上手く声に出せそうになかった。
「他に見えたものはあるか」
私は首を横に振る。振りつつ、一つ思い出した。
「箱」
「箱?」
「大きめの箱で、」
写真を振り返るために目を瞑った。撮ってから時間が経っているせいで、色が褪せはじめている。仰向けの先生、車の下、大きめの箱……。
「あ、箱というより、瓶に近いかも……向こう側が透けて見える……ガラスケース? 中に入っているものは……ごめんなさい、写真の鮮度が落ちすぎてちゃんと見えない」
「いい、それだけ分かれば充分」
私は目を開いて写真を裏にひっくり返した。あと数時間もすればこの写真は完全に見えなくなるだろう。
「他に知りたいことがあるのなら、今のうちに。時間が経つごとに写真は見えにくくなるから」
クラピカは頬杖をついて遠くを見ていた。知りたいけど聞いてはいけない気がして、私もぼんやりと思考を放棄する。ああ、眠りたい。眠りたくないけど、眠ってしまいたい。生きるのは大変。頭も身体も心も常に動かさないといけない。どこか一つが停止しちゃえば楽なのに、一つでも失うと死んでしまう。
沢山の感情が激しく燃え滾ったせいで、生きるのに必要な三種の神器は疲れ果てていたけど、私は安心していた。
「……私の最期は、どのようなものだろうな」
微睡の中でクラピカが言った。
「見ましょうか」
「明日にでも死んでしまうかもしれない」
「貴方の望みは、大きな望みなのね」
「そうだな。命を犠牲にしてでも叶えたい」
それじゃあ叶えましょうか、と言ってみたかった。使える物は使っておいた方が良い。そう言ったのはクラピカだけど、もしそれが本音ならクラピカはとっくに私に触れている気がした。
私はクラピカに触れてほしかった。
椅子と椅子の微妙な合間が、やけに遠い夜だった。