花冷えにめまい
 今夜も無事に、世界は夢と希望を取り戻した。
 VIPルームで流れている控えめなクラッシックが物語のエンドロールのように流れている。
 クラピカさんと先生は半月もしない間に、二回、三回、四回と店に訪れた。
この短い間に私のお客様ノートには沢山の物語が綴られた。たぶん、一通り聞き終えたと思う。今晩の話は以前も聞いたことのある話だった。
お酒の入った先生は興奮冷めやらぬといった風にまた次の物語を選んでいる。私は、次は何を話してくれるのかな? と思いながら、空いたグラスにお酒を作ったり灰皿を変えたりしていた。

 もう何度も同じことを繰り返している。

話を聞くだけでいい、可能なら持ち上げて気を良くさせてほしい

 あの日クラピカさんが言ったことを忠実に守って、いつも以上に気を張って席に着いているというのに、彼が求めている結果は得られていないようだった。クラピカさんの纏う影は日に日に濃くなっている。彼は静かに佇んでいるつもりだろうが、焦りや苛立ちが顔を出している。瞬きをすれば見逃してしまうほど分かりにくい変化を先生は当然気付いていない。そしてクラピカさん自身も気付いていない。この場で私だけが気付いていた。施設で粛清されてお母さんを失った私は敏感だった。

 可哀想なクラピカさん。

 彼が今感じているモノは、どうせ、そのうち忘れ去ってしまうのに。
ひっくり返した砂時計は止める術がない。時間はただひたすら過ぎていく。季節の移ろいに想いを馳せるように、失った想いを振り返ることは出来てももう二度と戻って来ない。
喪失感だけが取り残されて心を蝕む。ぽっかり空いた穴が広がって、ぜんぶを飲み込もうとする。

 みんな空になってしまえば良いと思っていた。
 そうしたら、誰も傷つかないですむのに。

『誰も傷つかないですむのに』

 口の中で転がした言葉が、広がった穴に落ちた。
私の半分が脈を打つ。草花が水を吸い上げるように、私の半分が言葉を吸い込む。

「クラピカさん!」
名前を呼ぶ声が、思いのほか大きな声になってしまった。反応したクラピカさんも先生も不思議そうな顔をしている。
「どうした?」目を丸くしたまま、クラピカさんは言った。
「先生にお礼がしたいのですが」
「お礼?」
「面白いお話を沢山聞かせてくれたお礼です」
 お酒を飲んでいた先生が豪快に笑って私の肩を抱いた。
「ナナミちゃん、彼に断りを入れる必要はないよ。僕とナナミちゃんの仲だ、お礼をしてくれるなら喜んで受け取ろう」
 クラピカさんは眉を顰めた。何をする気だ? と視線が訴えている。
 大丈夫、きっとクラピカさんの役に立つから。ニッコリ微笑んで返す。

「それで、どんなお礼をしてくれるのかな?」
「今からお見せしますね」
「ん? 見せる? ナナミちゃんここで脱いじゃうの?」
「やだ先生、ナニ想像しているんですか」
「あれ、違うの?」
「違いますよ」
 
 私は目をつむる。すぅっと小さく息を吸って、肩に触れている先生の手に集中する。
 
 ――もう一度目を開くと夜が広がっている。
 もっと深くまで潜らないと、もっと、もっと。

「ナナミちゃん……?」先生の私を案じる声がくぐもって聞こえた。

もう少しだ。
そして。

 ――火花が弾ける。もう二度と見ることはないと思っていた、目を突き刺す凶暴な光を捕えて、シャッターを切る。写真はピンぼけしたようにぼやけている。

もっと、もっと。これじゃあ足りない、全然ダメ。クラピカさんの力になりたい。彼が求める結果を得るために、この人の最期を知りたい。
強く願いながら、先生の温度を自分の熱に溶かしていく。

「ナナミちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です」
 
 ゆっくり瞼を下ろした。頭の中にはいつもの写真が一枚。上手くいった。
 私は短い息を吐いて、写真を覗いた。
 
 黒塗りの車のボンネットで先生は仰向きに倒れていた。だらんと宙に投げ出された手の先に箱のような物が転がっている。身体には銃弾。心臓、右の太もも、左の脛、お腹に数発めり込んでいる。穴の開いた水風船のように血が流れていた。恐怖に顔を歪ませながら硬直している先生の顔。そして、それを見下ろしている誰かの後ろ姿がある。

「え、」
「ナナミちゃん?」
 
 写真はあくまでその人の死を写す物≠ナあって、第三者に殺された場合、殺した相手の姿は映らないようになっていた。衣服や身体の一部が映り込むことはあっても、ここまではっきり映ることはない。薄いモザイクがかかった誰か≠ヘ目を凝らせば見えそうだった。スーツを着た、細身の男性? 風にそよぐ金糸の髪が薄暗い写真の中で月明かりのように、

「ナナミちゃん!」
「あっ、」
 叱責で目を覚ました。置いてきぼりにされた先生は眉間に濃い皺を刻んでいる。

「ごめんなさい、終わりました」
「なにをしていたんだい?」
「最期を見ていました」
「最期?」
「先生なら耳に挟んだ事があるかもしれません。死の恐怖≠ニ呼ばれていた幼い子供を」
 
 私自身がそう呼ばれていたと知ったのは店で働きはじめてからだ。宗教を研究しているお客さんに出会って、私も私の事を調べるようになった。 
私とお母さんについては表沙汰になっていない。当時のお客さんは社会的に地位のある人が多かったらしく、また、宗教テロなどの事件性がないことから公に出る事はなかった。真相は闇に葬られたままだと、読んだ記事には書いてあった。  
幼子の妄言かもしれない死の宣告を、なぜ一握の疑問すら抱かずに盲信したのか。それにはお母さんが関係しているとかあったけど、そこから先はライターの見解に過ぎないのでちゃんと読んでいない。

「死の恐怖、」
 
 先生はまさか≠ニいう顔で私を見た。私は女神様のように笑ってみせた。

「僕の恩師にあたる大先生が、神様に会ったことで成功への道が開けたと仰っていた。凄惨な死を与えられる代わりに、必ずその人の望む幸福を与えられると。大先生の元で勉強中だった僕には詳しく教えて下さらなかったけど、当時の政治家達の間では随分噂になっていてね。そうか……そうか、ナナミちゃん、君が……」
「私の嘘かもしれないのに、信じてくれるんですか」
「クラピカの用意する女は必ず何かあると思っていたよ。ただの女を僕に寄越すはずがない。そうだろ、クラピカ?」
 苦虫を踏み潰したような顔でクラピカさんは口を開いた。
「……その通りです」
「お前も人が悪いな、クラピカ。もっと早く彼女の事を知っていれば長引くこともなかったろうに」
「申し訳ない。ナナミの件を話すに値する人物か、私なりに調べていました」
「それで、僕は合格かな?」
「勿論です」
「それは良かった。僕も君が気に入ったよ、素晴らしいプレゼントもね」

 先生の周りをどろどろとした陰りが蠢いている。陰りは先生の前へやってくると、そのまま、ずぶずぶと沈んでいった。

「あの、先生」
 大丈夫ですか? と尋ねるのはおかしい。
「見えたものをお伝えしましょうか」咄嗟にそう言った。
「ああ」先生は怪しげに目を細める。
「今日はいいよ。事務所に戻ってやることが出来たから先に帰る。クラピカ、詳しい話はまた電話で。ナナミちゃんお礼≠ありがとう。僕の最期は次に会ったときに聞かせてくれ」
「わかりました」
「見送りはいい。では」
 先生はさっさと荷物をまとめると、機嫌よく手を振って部屋を後にした。

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