09、



 彩り鮮やかな街をリヴァイは歩く。日はすっかり落ちているが、こんなに人で賑わう時間帯に帰るのは久しぶりのことだった。
 このところ、仕事が忙しい。スミスの会社は社員にできるかぎり休暇を取らせるようにしているから、それを補うためにも仕事納めまでの数日はとみに忙しくなるのだ。家にはほとんど寝に帰るようなものだった。リヴァイは今日とて終電まで詰めているつもりだったのだが、思わぬ横槍が入った。エルヴィンだ。
「今日はもう帰れ」
 わざわざリヴァイをオフィスから引っ張り出すので何事かと思ったら、エルヴィンは真顔でそんなことを言った。「はぁ?」と間の抜けた返答になったのも仕方ないだろう。このクソ忙しい時期に何を抜かすのか。
「言ったとおりだ。今日はもう帰りなさい」
「何言ってんだ、エルヴィン。まだ仕事が──」
 残っている、と言いかけたリヴァイはエルヴィンの目を見て黙った。リヴァイを見下ろす、冷ややかにも見えるほど澄んだ碧眼。そこには固い意思が垣間見える。
「命令だ、リヴァイ」
 エルヴィンはリヴァイに言い聞かせるようにゆっくりと告げた。反射で舌打ちが出る。エルヴィンはわかって言っているのだ。『昔』からリヴァイは、こういう目をしたエルヴィンの命令には逆らえない。エルヴィンが何を考えているかはわからないが、こいつは絶対に命令を撤回しない。
「……了解だ、エルヴィン」
 釈然としないながらも頷いて、身支度をした。時計を見ればまだ六時前で、いくらエルヴィンの命令とはいえ部下を残して帰るのは気が引けた。そう思っても、エルヴィンの有無を言わせぬ笑顔を見るとどうにもできず、後日部下には豪勢なランチでもおごってやろうと無理矢理自分を納得させていまに至っている。
 急にぽっかりできた時間に戸惑いながらもふと思うのは、半月近く前に会ったきりのミカサのことだった。
 あの日、リヴァイはミカサが泣きやむまでそばについていて、彼女が落ち着くと一緒に帰路についた。どちらから繋いだのか、それを覚えていないほど無意識のうちに手を繋いで。そして彼女の家の前で別れた。
『待っている』
 別れ際、リヴァイはミカサにそう告げた。
『ゆっくり考えろ。俺は待っている。お前が答えを出せるその時を、いつまででも』
 エレンがミカサに何を話したのか、聞いてはいないが大体の想像はつく。彼女がエレンの想いを本当の意味で受け入れるにはまだ時間がかかるだろう。しかし律儀なところのあるミカサは、きっとリヴァイに対して「答えを出さなくては」という焦燥に駆られるだろうと思った。そんな必要はないことを伝えたかった。ミカサは何か言いたそうに唇を開閉させたが、黙って頷いた。
 ふ、と手のひらを見つめる。ミカサと繋いだ手だ。
 初めて一方的にではなくミカサに触れた。それがどういう意味なのか、リヴァイは量りかねている。エレンのことがあって、ただ誰かにすがりたかっただけなのか。それとも、と胸にうずく期待を振り払うように、リヴァイは頭を振った。
 普段は仕事に集中することで振り切っているが、気を抜くとすぐにミカサに会いたくなる。何日も会えないことなどこれまでにもあったのに、ミカサに会いたくてたまらない。顔が見たい、声が聞きたいと強く思う。ずいぶん我慢がきかなくなったもんだ。
「待っている、か」
 リヴァイは独白した。なんとも調子のいい言葉だ。もちろんミカサに対して思ったことに偽りはない。が、そこには打算もあった。エレンという、最大の恋敵がもはや存在しないのだ。エレンが障壁にならないのであれば、いくらでも時間をかけられよう。これでもう、エレンを気にすることなくゆっくりとミカサの心をほぐせると思ったことも、事実だった。
 女と付き合ったことがなかったわけじゃない。情が湧かなかったことがなかったわけでもない。だが、こんな醜さを抱えるほど誰かに惚れたのは、ミカサが初めてだった。ああ、エルヴィン、確かにこれは初恋だな。
 なんてことを考えながら自宅にたどりついたリヴァイは、玄関を開けて動きを止めた。リヴァイの手によって綺麗に整頓されたそこに、女物のブーツがきちんと並べてあった。
「……まさか」 
 リヴァイは靴を脱ぐと、足音を立てないようにリビングに近づいた。灯る明かりと、流れてくる暖気。いい匂いもする。確かな人の気配だ。
 そっと窺うように扉を開ければ、会いたくてたまらなかった女がソファに座って本を読んでいた。ふうと流れた風を感じたのか、ミカサが顔を上げる。瞳がリヴァイを映した。
「おかえりなさい」
 本を傍らに置いて、ミカサが立ち上がる。その動作を、リヴァイは茫然と見つめていた。
「お前、なんでここに……それに、その髪……」
 まず、ミカサがここにいることに驚きを隠せない。そして思わず指し示したミカサの髪は、まるで『昔』のように短くなっていた。すがすがしいまでのばっさり具合だ。
「食事を作ってあるので、食べてくれると、嬉しい」
 質問には答えず、ミカサはそう言った。
 ミカサ手製のシチューを頬張るリヴァイに、ミカサは瞳を嬉しげに細めた。「うまい」と世辞抜きで言えば、彼女はますます嬉しそうだった。ミカサがここにいる理由を聞きたいところだが、彼女があんまりにも食べるリヴァイを嬉しそうに見つめるものだから、リヴァイは黙々とスプーンを進めざるをえなかった。やがて皿の中身が大方減った頃、ミカサはようやく来訪の目的を告げた。
「今日はあなたに、返事をしにきた」
 さらりと言われた言葉に、リヴァイの胸が緊張に張りつめたのがわかった。
「本当は、エレンと再会したあの日に、もう答えは出ていた。でもやっぱり少し心の整理をつける時間は必要で、あなたが待ってくれると言うから、私はそれに甘えてしまった。再会してから、あなたはいつもそう。私を甘やかす」
「そんなつもりはなかったが……」
「あなたに甘やかされるのには慣れていなくて、ずいぶん戸惑ったけれど……全部、嬉しかった。だからもう、私はあなたを待たせない。そう、決めた」
 ごくり、と喉が鳴る。
「だけどあなたは忙しい……ので、エルヴィン団長に相談したら、この家の合鍵をくれた。今日あなたを早く帰してくれるように頼んだのも、私」
 合点が行った。それでエルヴィンはリヴァイを帰したがったのか。あの野郎。
「髪を、伸ばしていたのは」
 急に話が飛んだように見えたが、ミカサはリヴァイの質問に答えているだけなのだと思い当たって耳を傾ける。
「願掛けだった。エレンに会えますように、っていう。その願いは叶ったから、切った」
「そうか……」
 少し、残念に思う。ミカサの髪は綺麗で、悪くないと思っていたから。もう立体機動で飛ぶ必要もないのだ。伸ばすのも自由だろうと。
「それに、儀式でもあった」
「儀式?」
 ミカサが自分の髪に指を絡めた。その仕草に、リヴァイはいつぞや触れたミカサの髪のやわらかさを思い出す。
「エレンのためのものを断って、新しい自分に生まれ変わるために必要なことだった。あなたの隣に並ぶために」
 ミカサがまっすぐにリヴァイを見据えた。凛とした表情に、どきりと心臓が鳴った。

「あなたを、愛している。──リヴァイ」

 全身を稲妻に貫かれたようだった。リヴァイの身体を貫いたのは歓喜だ。震えが走った。夢を見ているのかとさえ思った。
 ミカサがどんなにエレンを想っていたかを知っている。焦がれていたかを知っている。その彼女が、リヴァイを愛していると言った。エレンでも、ほかの誰でもない、リヴァイを。そして彼女は、冗談や同情でこんなことを言わない。これが、震えずにいられようか。
 胸がいっぱいになって何も言えないリヴァイをどう思ったのか、ミカサは急に不安そうな顔になった。
「ご、誤解はしないでほしい。あなたを好きなのは、別にエレンの代わりというわけじゃない。エレンの代わりはいない。あなたはあなたで、あなたの代わりも、いない。あなたを好きなこの気持ちに、嘘は一辺もない」
 必死に言い募るミカサに言いようのないいとおしさが込み上げて、リヴァイは立ち上がった。なおも不安そうに見上げてくるミカサの後ろに回り込んで、やわらかな肢体を抱き寄せる。彼女の肩口に顔をうずめて、リヴァイは囁いた。
「──ありがとう」
 それしか言えない。ミカサがくれた言葉は何より望んだものだった。これ以上ないほどに。
「……リヴァイこそ、私を好きになってくれて、ありがとう」
 ミカサが微笑む気配が、した。


「リヴァイは、今日がなんの日か覚えている?」
「あ?」
 食後の一服、というわけでもないが、リヴァイが淹れた紅茶で唇をしめらせたミカサが、ソファで彼女に寄り添うように座ったリヴァイに聞いた。
「わざわざエルヴィン団長に頼んであなたを早く帰してもらったのは、返事をするなら、どうしても今日がよかったから。今日は十二月二十五日……あなたの誕生日です」
 リヴァイは目を瞬いた。すっかり忘れていた。自分の誕生日がクリスマスなことは把握していたが、街がクリスマス色に染まるのは十二月に入ってすぐからだから、賑わいていても気にも留めなかった。
「だからリヴァイ、あなたに私をあげよう」
「……そりゃ、最高のプレゼントじゃねぇか」
 心から言うと、ミカサは微笑んで、ふいに顔を近づけてきた。ちゅ、と頬にやわらかいものが触れたと思ったら、今度は反対の頬に、額に、顎にとミカサがキスを降らせてきた。びっくりしすぎて、キスを知らない子どものように固まっていたら、ミカサの唇が首筋に押し当てられたので、慌てて肩にかけられていた彼女の手首をつかんで引き剥がした。
「……てめぇ、なんのつもりだ」
 ミカサの顔はきょとんと、ありありと不思議なことを聞かれたと物語っていた。
「私はあなたに、私をあげると言った」
「ああ、言ったな」
「あなたは私が、欲しくないの?」
 小首を傾げられて、リヴァイはようやくミカサの真意を悟った。ミカサは──誘っているのだ。
 理解した瞬間、ずくりと熱を下半身に感じた。
 欲しくないか、だと? そんなもの──欲しいに決まっている。
 再会したあの日から、リヴァイはミカサに情欲を感じていた。そんな相手にまるごとどうぞと言われて拒めるほど、リヴァイは人間ができていない。
 いつの間にかからからに乾いていた唇を舐めて、リヴァイは笑った。
「……やめろと言っても、止められないからな」
 最後の警告にも、ミカサは頷いた。
「あなたに、私をあげよう」
「は、上等だ」
 つかんだままの手首を押しやって、ミカサをソファに押し倒す。先程のお返しに、リヴァイも頬に、額に、顎にキスを降らせてやった。ミカサはくすぐったそうに身じろぎする。
 そうしていて気づいた。ミカサがかすかに震えていることに。それもそうだ。男に身を任せることなど、ミカサは初めてなのである。『昔』はともかくも。
 少し引いたリヴァイに気づいたのか、ミカサは腕を伸ばしてきた。別に拘束していたわけではないのでリヴァイの手はするりと外れて、ミカサは伸ばした腕をリヴァイの首に巻きつけた。ぐっと引き寄せられる。唇同士が、触れた。
「……女に二言は、ない。私は、大丈夫」
 潤んだ瞳と、上気した頬に、リヴァイの理性はあっけなく陥落した。
「……できるだけ、優しくしてやる」
 こくんと首肯した女の唇に口づけて、リヴァイは言葉を紡いだ。

「──愛している、ミカサ」

 ミカサが見せた笑顔は、リヴァイが焦がれたそれより、何倍にも美しかった。



2014.12.14〜2015.2.10


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