08、



 リヴァイの姿が遠ざかる。タン、と静かに扉が閉められて、部屋には沈黙が落ちた。その短くない沈黙を破ったのは、エレンだった。
「……ミカサ」
 びくっとミカサの肩が跳ねる。そろりと顔を上げれば、エレンが微笑んでいた。その笑顔に、胸がいっぱいになった。
 言いたいことがある。聞きたいことがある。それよりもまず、もう一度この笑顔に出会えたことに言いようのない感動を覚えた。生きている。動いている。エレンが、私の前で!
「久しぶりだな。またお前に会えて、すっげー嬉しい」
 パッと弾みかけた心は、エレンの左の薬指に嵌まった指輪を見つけたことでしぼんだ。ミカサの視線に気づいたエレンも指輪を見て、ああ、と困ったように眉尻を下げる。
「エレン……あなたに会えたことは、私もすごく嬉しい。でも、聞きたいことが、ある」
「ん、わかってる。なんでも聞けよ。全部答える」
 ミカサは深呼吸を繰り返した。いまさらだが、まずはこれを聞かなければ話が進まない。
「エレンは、覚えてる? 私のことも、アルミンのことも、リヴァイ……兵長のことも」
「ああ。ミカサのことも、アルミンのことも、兵長のことも、全部覚えてる」
 やっぱり。それならどうして、と言いたいところを飲み込んで、ミカサは少しだけ違うことを聞いた。どうして、なんて自問自答する時間は、エレンたちが病室に戻ってくるまでの間にたくさんあったから。
「……ヒストリアを、愛してる?」
「ああ、愛してるよ」
 迷いのない答えだった。
 昔のエレンは、恥ずかしがって愛の言葉なんて数えられるほどしか言ってくれなかった。たまに言ってくれるときもとても照れくさそうで。そのエレンがこうして、なんのてらいもなく「愛してる」と言う。それだけヒストリアを愛しているのだと思い知らされて胸が痛んだ。エレンが結婚していると聞かされて、それでも会いに行くと決めた時点で覚悟していたはずだったのに、まるで心を刺し貫かれたみたいだった。
 ぎゅっと目をつぶって、じわ、とにじんだ涙を押し込める。もう一度深呼吸して、ミカサは尋ねた。
「……エレン、私はあなたにとって、重荷だった?」
 エレンはうっと口ごもった。目が泳いでいる。嘘がつけないのは相変わらずだ。
「……正直言うと、ちょっとだけ、思ったことがある。お前の愛情がうっとうしいな、って」
 言って、エレンは慌てたように手を振った。
「けど誤解すんなよ。それは結婚する前のことで、俺が馬鹿でガキだったからで、お前が悪いわけじゃないんだ。むしろ重荷だったのは、俺の方だよな」
 エレンの発言に、今度はミカサが首を振った。
「そんなことない……! あなたが重荷だったことなんて、一度もない! あなたは私の希望だった!」
 エレンは一瞬嬉しそうな顔をして、それから真顔になった。
「ミカサ、俺のこと、恨んで、憎んで、一生許してくれなくてもいい。俺はお前にそれだけの仕打ちをしてると思う。それでも俺は、ミカサに自由な世界で幸せになってほしいんだ」
 エレンはそう前置いて、すべてを語った。リヴァイに話したのと同じことを。
「エレン……そんなふうに思ってたの? 私は、幸せだったのに。あなたと過ごせて、あなたと家族になれて、本当に幸せだったのに」
 幸せだった。きっと誰にも想像できないくらい。エレンだけはわかってくれていると思っていた。
「……うん、そうだよな。ごめん。ひどいよな、最低だよな」
 俺も、幸せだったよ。お前と夫婦になれて。本当に、幸せだった。でももう、ミカサには俺に縛られてほしくないんだ。お前は縛られるなんて思ってもないだろうけど、俺は思うんだ。もうお前を縛りつけたくないって。
「ミカサには、新しい世界に飛び込んでいってほしい。お前なら、どこへだって自由に飛べるから。……いまのミカサには、一緒に飛んでくれる人がいるだろ?」
 ミカサは目を丸くした。そんな相手は、ひとりしか浮かばなかった。
「……リヴァイさんのこと?」
 わかってるじゃん、とエレンは笑った。
「あの人、本当にお前が好きなんだな。お前が倒れたって連絡したらすっ飛んできたし、俺がお前以外と結婚したことにも本気で怒ってた。それだけミカサが大切なんだ」
「……うん」
 知っている。リヴァイに愛されていること、大切にされていること。それを知るには充分な時間をふたりで過ごした。
 こんな状況だというのに、リヴァイのことを考えたら胸がぽかぽかした。同時にきゅうと締めつけられる。
「──ミカサ、お前、兵長が好きなんだな。なんだ、両想いじゃんか」
 ふいに言われて、ミカサはびっくりした。カッと頬が熱くなる。
「何を言ってるの、エレン……」
「お前、気づいてないんだな。自分がどんな顔してたか」
「……顔?」
「お前いま、兵長のこと考えてただろ」
 それは事実だったので、ミカサはこくりと頷いた。エレンはおかしそうに笑う。
「めちゃくちゃ幸せそうな顔してたぞ、お前。完全に恋する乙女の顔だよ」
 虚を突かれた。熱を持ったままの頬に触れる。むにむにと意味もなく揉んでみたりする。
「……なぁ、ミカサ。無理に俺が好きだって思い込もうとしなくてもいいんだぞ。多分お前、戸惑ってるんだよ。ずっと俺が好きなんだって思ってたから、俺に向ける感情だけが恋だと思ってるんだ。でも俺と兵長への想いが違ってもそれは当然だろ? だって俺と兵長は違う人間なんだからさ。まったく同じ好きなんてありえねぇよ。俺も、お前への『好き』とヒストリアへの『好き』はちょっと違うしな」
 それは……そうなのかもしれない。確かにエレンとリヴァイはまったく違う人間だ。いいところも悪いところも全部違う。
「難しく考えるなよ。心に素直になればいいんだ。お前、覚えてないかもしんないけど、倒れる前に兵長の名前を呼んだんだぜ」
「リヴァイさんを?」
 ミカサは自分の唇に触れた。言われてみれば、そうだったかもしれない。記憶がないとばかり思っていたエレンがミカサの名前を呼んで、混乱して、苦しくなって、助けを求めた。そう、助けてくれると思ったのだ、リヴァイなら。
「──それが答えなんじゃないか?」
 何かに気づいたように目を見開いたミカサを見て、エレンは立ち上がった。
「俺、もっとお前に責められるかと思ってた。泣かせるんじゃないかって。そうならなかったのは、きっと兵長のおかげだな。兵長がミカサの心、包んでくれてたんだ」
 ミカサはぱちくりと目を瞬いた。胸を押さえる。さっきはあんなに痛かった胸が、いまは痛くない。いつから──考えて、気づく。リヴァイのことを考えてからだ。
「エレン!」
 とっさにきびすを返しかけたエレンのパーカーの裾をつかんだミカサの手を、エレンはやんわりと外す。その手を軽く叩いて、エレンはまた笑った。
「リヴァイさんを呼んでくる。──幸せになれよ、ミカサ。俺の大事な家族」
 家族。と、エレンはミカサを呼んだ。関係が変わっても、ふたりが家族であることは変わらない。それがエレンの──愛情なのだ。
「エレン」
 扉に手をかけたエレンが立ち止まる。その背中にミカサは言葉を募らせた。
「私は、あなたを恨んだりしない。あなたが私の幸せを願ってくれたように、私もあなたの幸せを願ってる。ヒストリアと幸せになって。あなたは私の、大切な家族だから。──私も、幸せになろう」
「ああ」
 エレンはミカサの答えに満足げに頷いて、扉を開けた。その向こうにリヴァイの姿が見えた。どきん、と心臓が鳴った。扉が閉じてリヴァイが見えなくなっても、ミカサの胸はどきどきしていた。

 ──お前、兵長が好きなんだな
 ──完全に恋する乙女の顔だよ

 エレンの言葉がリフレインする。いまさらながらに恥ずかしくなってくる。私はそんなにわかりやすいのだろうか。……リヴァイは、気づいて、いるのだろうか。
 再び扉が開いて、リヴァイが病室に入ってきた。ミカサの胸はひときわ高鳴って、ミカサは慌てて顔を逸らした。唇を引き結んでいないと、どんな顔をしたらいいかわからなかった。
「……ミカサ」
 そんなミカサの態度をどう思ったのか、リヴァイはためらいがちに声をかけてきた。
「俺はいない方がいいか」
 リヴァイがそう聞いてきたので、ミカサはふるふると首を振った。行かないで、と思った。リヴァイに、そばにいてほしかった。ああ、これが心に素直になるということだろうか。
 そう思うと、リヴァイに触れてほしくなった。彼のぬくもりを感じたくなった。
「……リヴァイさん。手、握っていてもらえますか」
「……ああ」
 ミカサの唐突な求めにもリヴァイは応じてくれた。ベッドに腰かけて、手を握ってくれた。
 胸があたたかくなって、エレンの愛情に、リヴァイの愛情に、涙が出た。ぽたぽたと雫がこぼれる。涙は次から次へとあふれて、しばらく止まらなかった。そんなミカサに、リヴァイはずっと付き添ってくれていた。



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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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