07、



 リヴァイは職場でデスクワークに勤しんでいた。といってもまったく手がつかない状態で、部下からは「どこかお加減でも……?」と心配されたほどである。公私混同とは情けないと思いつつも、ミカサのことが気になって仕方なかった。
 いまごろはエレンに会っただろうか。エレンに会って、彼女は何を思うのだろう。
 物思いにふけった、そのときだ。机の上に置いていたスマートフォンが振動した。着信を確認したリヴァイは迷わず電話に出た。相手がミカサだったからだ。ミカサには、何かあったら連絡しろと言い含めてあった。
「ミカサか?」
 しかし予想に反して、聞こえてきたのは男の声だった。
『──お久しぶりです、リヴァイ兵長』
 リヴァイは一瞬動きを止めたが、瞬時に相手が誰なのかを理解する。記憶にあるよりも幾分か低くなっているが、この声は。
「……エレンか」
『はい』
 電話越しにエレンが微笑む気配がした。リヴァイは表情を険しくする。エレンがリヴァイを「兵長」と呼ぶ、その意味に。
「エレン、お前……覚えているのか、俺を」
『ええ、覚えています、何もかも。自由の翼をまとった日々を。あなたの背中に憧れた日々を。人類が手にいれた自由を。……でもとりあえず、これから言う病院まで来てもらえませんか?』
「病院?」
 怪訝に聞き返す。
『実はミカサが倒れちゃって』
「どこだッ!?」
 叫びながら、リヴァイは駆け出していた。
 駆け込んだ病院で、教えられた病室まで走る。「院内は走らないでください!」という叱責を聞いたような気もするが、止まらなかった。
 ひとつの病室の前で、パーカー姿の男が待っていた。憎たらしいくらい背が伸びたそいつは、どこからどう見てもエレンそのものだった。
「エレン!」
 リヴァイの声に顔を上げたエレンは、バッと右手を左胸に掲げた。金色の瞳に生気を宿し、真っ向からリヴァイを見据える。
「お待ちしてました、兵長。どうぞ」
 促されるまま病室に入ると、ベッドに意識をなくしたままのミカサが横たわっていた。寝顔はどこか苦しげで、リヴァイはエレンを振り返る。
「どういう状況だ、これは」
 ぎろりと睨み据えるように見たエレンは年相応の青年の姿で、それはかつて見ることのできなかった姿だった。エレンの命はその前で尽きたのだ。それがこうして再びまみえたことを本来は喜ぶべきだろうが、懐かしさより怒りが込み上げた。
「……ミカサ、俺を訪ねてきたと思うんですけど、いきなり気を失っちゃって」
 それはそうなるだろう。結婚の事実だけでもショッキングなのに、さらにエレンに記憶があると知ってどれだけショックだったことか。
「とっさに支えたんで頭とかは打ってないはずなんですが、目を覚まさないし、それで救急車を呼んでここに連れてきたんです。無理言って個室にしてもらいました」
 至極落ち着いた様子のエレンに、リヴァイは違和感を覚える。こんな冷静沈着に説明できる奴だったろうか。少なくとも昔のエレンなら、ミカサが倒れれば慌てふためいたはずだ。
 だがそれよりも、とリヴァイはエレンの胸ぐらをつかむ。
「説明しろ、エレン! 記憶があるなら、なぜミカサ以外の女と結婚した!」
 覚えているなら、なぜ。ミカサがどんな娘かを、エレンとてよく知っているはずなのに。
 かなりきつめに締め上げてしまったから、けほっとむせながら、それでもエレンは小さく笑った。
「やっぱり兵長は、俺が誰と結婚しているかもご存じなんですね。……ミカサ、気を失う前に兵長の名前を呼んだんですよ。だから兵長に連絡しました」
 ふっとエレンを締め上げる手がゆるんだ。ミカサが、俺の名を呼んだ?
「兵長、俺は、ミカサを解放したいんです。『エレン・イェーガー』から」
 そう言うエレンの瞳には、覚悟が見えた。
「俺が『昔』のことを思い出したのは大学生のときです。ちょうど成人した頃かな……でもそのときにはもう、隣にヒストリアがいました」
 病院内のカフェテリアで、リヴァイとエレンは向かい合った。
 ヒストリアは何も覚えていないんです、とエレンは言った。調査兵団のことも、レイス家のことも、ユミルのことも。
「まだ付き合ってはいなかったけど、そうなるのも時間の問題かなってくらい、ヒストリアは近しい存在でした。ヒストリアとは大学入学のときのガイダンスで隣の席で、それがきっかけで仲良くなって。確か、そろそろ告白を、って考えていたと思います。でもいきなり全部思い出して、ミカサのことも思い出して……すっごく戸惑いました。でも、ああこれはチャンスかもしれない、って思ったんです」
「チャンス?」
 はい、とエレンが頷く。
「ミカサを自由にするチャンス」
 自由、と、リヴァイは声に出すことなく繰り返した。
「俺、幸せでした。ミカサと結婚できて、最期まで、そばにいてもらえて。海を見に行くことはできなかったけど、満ち足りた最期でした。でもミカサは、本当に幸せだったんでしょうか? 俺と結婚しなければ、あいつは海を見に行けたのに。広い世界に飛び出せたのに」
「……幸せだったに決まってんだろ。あいつがどれだけお前を好きだったかなんて、俺でも知ってる」
 そうだ。あの頃、ミカサは本当に幸せそうだった。リヴァイはちょくちょくエレンを見舞っていたので、ミカサとも顔を会わせる機会はほかの面子より多かった。彼女の無表情の中にある喜色を、リヴァイは知っていた。
 そうですね、とエレンは相づちを打った。そうかもしれません、と。
「だけど俺は知ってるんです。ミカサが懐かしそうに空を見上げていたことを。遠くを見て、微笑んでいたことを」
 エレンは顔を上げて、カフェテリアの窓から見える青空を見つめた。まぶしそうに。リヴァイも見上げた空には、鳥が舞っていた。
「ミカサも兵長も、あんなふうに空を飛んでいました。まるで本当に翼があるみたいに。羨ましかったなぁ。俺じゃ兵長たちみたいには飛べなかったから」
 視線を戻す。エレンがリヴァイを見ていた。
「過去を覚えてるからって、昔とまったく同じ選択をする必要はないと思うんです。これ、気づかせてくれたのはヒストリアなんですけど」
 えへへ、と照れくさそうにエレンが笑う。そういう笑顔は昔のままだ。
「ミカサにはもっと広い空を飛んでほしいと思います。自由に、どこまでも。でもそうするには俺じゃ駄目なんです。俺とじゃ、ミカサは狭い鳥籠に閉じ込められたままになってしまう。せっかく自由の翼を持っているのに、どこへだって飛べるのに。……鳥籠でも、それはひとつの幸せかもしれないし、俺のエゴではあるんですけど。それでも」
 愛しているのだ、と思った。エレンはエレンなりに、いまもミカサを愛しているのだ。愛しているからこそ、エレンはミカサを突き放すことを選んだ。
「たとえ恨まれても憎まれても、……泣かせても。一生許してもらえなくてもいいです。ミカサには幸せになってほしい。……たとえば兵長みたいな人と」
 リヴァイはびっくりした。こいつは本当にエレンか。こんなに察しがよかったか、こいつ。
「俺、あんなに取り乱した兵長の声、初めて聞きました」
 エレンは悪戯っぽく笑った。
「好きなんですよね、ミカサのこと」
「……は。ずいぶん言うようになったじゃねぇか」
「恋愛に関しては俺、これでも先輩ですからね」
 ふふん、とエレンは自慢げに胸を反らした。
「ヒストリアを愛しています。一生大事にします。でも俺、ミカサのこと、いまでも愛してますよ。だって家族ですから」
 そして祈るように、エレンはささやいた。
「幸せにしてください、ミカサを。あなたになら、きっと」
 選ぶのはミカサだ。けれどもし、ミカサが俺を選んでくれたなら。
「誰にものを言ってやがる、クソガキ」
「それでこそ兵長です」


 病室に戻ると、ミカサは目を覚ましていた。窓の外を眺めていたミカサは開いた扉に気づいて振り返る。
「リヴァイさん……エレン」
 リヴァイの後ろに立つエレンの姿に、ミカサは顔を強張らせた。リヴァイは病室の外に出て、エレンを中に押しやった。
「説明してやれ。俺は席を外す」
「……はい」
 エレンは頷いて、ミカサに歩み寄った。ミカサがエレンを見上げる。そのツーショットに胸が痛んだが、知らないふりをした。
 病室の向かいの窓際に佇んで、リヴァイは待った。どれくらい時間が経った頃だろう、ガラリと扉が開いた。
「兵長」
「……終わったのか」
「はい。ミカサに伝えたかったことは、全部言ったつもりです。あとは兵長にお任せします」
 言うとエレンは深く頭を下げた。去りゆくエレンの背を見送って、リヴァイは病室に入る。ミカサはベッドの上で、固く唇を引き結んでいた。
「……ミカサ」
 呼びかけるが、返事がない。
「俺はいない方がいいか」
 どうしたものか迷って聞くとミカサが首を横に振ったので、リヴァイはミカサの脇に立った。
「……リヴァイさん。手、握っていてもらえますか」
「……ああ」
 求められるまま、リヴァイはベッドの端に腰かけて、ミカサの手を握った。彼女の頬を伝う雫には気づかなかったふりをして、長い間そうしていた。



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