05、



 性急すぎたか。
 買ってやったイルカのぬいぐるみに顔をうずめるミカサを見て、リヴァイは反省した。どうやら自分は、思っていた以上にミカサに好感触を与えていたらしい。そこは素直に喜ぼう。だが、ミカサを困らせたかったわけでは、ない。いや、それを言うならリヴァイの告白そのものがミカサを困らせているのだけれど、少なくともミカサにこんな、いまにも泣き出しそうな表情をさせたかったわけではないのだ。ミカサがどれだけの時間エレンを想っていたかを知っているからこそ、もっとゆっくり心をほぐさなければならなかったのに。
 本当に、とおのれを笑う。いい年した大人が、まだ十代の少女を相手に、こんなにも余裕がないとは。
「……ミカサ」
 そっと呼ぶと、ミカサが顔を上げた。その瞳が潤んでいるのを認めて抱きしめたくなるが、どうにか自制する。彼女の手を取ったまま、口を開く。
「悪かった」
「え……」
 ミカサはリヴァイを振り払わない。それは彼女の優しさだろうか。それとも。
「お前を、追い詰めたいわけじゃねぇんだ。苦しませたいわけでも、泣かせたいわけでもない。まるで説得力ねぇけどな。今日はただ、お前に楽しい思いだけをさせたくてここに連れてきた」
 海に憧れていた子どもたち。あと一歩で叶うはずだった夢。これくらいで取り返せるものでもないが、少しでも、夢を叶えられたらいいと思った。夢を奪ったのは巨人だが、もとをただせば大人たちが元凶だ。楽しいことなど何ひとつさせてやれなかった少女に、楽しいことをさせてやりたかった。
「お前が楽しかったなら、よかったよ。……いまはそれで充分だ」
 ミカサは、怯えているのだ。自分の心に。エレンが絶対だった自分の世界が壊れることに。
 そんな彼女も愛しくて、リヴァイは目を細めた。
「絶対に無理強いはしないと約束する。お前が嫌だと思うことも。嫌だと思ったら押しのけろ。ひっぱたくのでもいい。だけど頼むから」
 若干ためらいを感じなかったわけではないが、やはり余裕を持てなかった。リヴァイはミカサの手を引っ張って、均衡を崩したミカサを抱きしめる。彼女が抱えたイルカのぬいぐるみが邪魔をして、軽くミカサの頭を抱くだけの、そんな抱擁だったけれど。
 ミカサの耳元で、リヴァイは懇願した。
「頼むから、……俺から逃げないでくれ」
 心を閉ざすことだけは、するな。
 ミカサは無言だった。それでも、ミカサはリヴァイを押しのけなかったし、ひっぱたきもしなかった。ややあって、ただリヴァイの肩に顔をうずめる。それが、答えだった。
「ありがとう」
 リヴァイはほうと息をついて、そう言った。
 そのあとはミカサを自宅まで送っていった。ミカサは最初気乗りしない様子だったが、拒否されもしなかったのでそうなった。着いたミカサの家では、門前で壮年の男性が仁王立ちしていた。誰だ? と首を傾げかけたリヴァイの横でミカサが「お父さん」と呼んで、リヴァイは男性の正体を知った。そわそわと立っていた彼はぱっと顔を輝かせてこちらを向き、次いでミカサの隣にいるリヴァイを見てあからさまに顔をしかめた。ミカサが微妙な様子だった理由はこれか、とひとり納得する。
「おかえり、ミカサ。………………で、そちらの方は?」
 父親がものすごく苦虫を噛み潰したような顔で言うものだから、リヴァイは失笑しかけた。ミカサは大切にされているらしい。
「……リヴァイ・スミスさん。私の……尊敬してる人」
 リヴァイとミカサの関係にやましいところは一辺もないが、大っぴらにできる関係でもない。どう紹介するつもりなのかとミカサを窺っていたリヴァイは、思わぬ言葉に驚いた。ミカサからそんな言葉を聞くなんて。なんだかむずがゆい。
「リヴァイ・スミスです。はじめまして」
 ミカサの父親だ。悪印象は与えたくない。驚きを押し隠し、リヴァイはにっこりと笑った。営業スマイルは必須スキルだ。リヴァイの笑顔に、今度はミカサの方が驚いた顔をした。どういうことだ。
「これはご丁寧に……ミカサの父です」
 言いたいことを百万語も飲み込んだような顔で、父親はリヴァイが差し出した手を握った。瞬間グッと力が込められる。リヴァイも大概余裕がないが、父親も父親で余裕がないらしい。ふ、と今度は抑えきれなかった笑みをこぼす。
「じゃあ、俺はこれで──」
 失礼する、と続けようとした言葉は、ミカサ宅の玄関の扉が開く音で遮られた。
「あなた、いい加減中に──って、あら?」
「お母さん」
 母親は、ミカサとよく似ていた。ミカサに年を取らせたらきっとこうなるのだろうという顔だ。母親の視線は夫とミカサを経て、リヴァイで固定された。にこやかに尋ねられる。
「あらあら。おかえりなさい、ミカサ。その方は?」
 ミカサが父親にしたようにリヴァイを紹介すると、母親はもう、と腰に手を当てた。
「あなたもミカサも気が利かないわ。何もこんなところじゃなくて、上がっていただいたらよかったのに」
「母さん!」
「いえ、今日は送ってきただけですので」
 何やら目がらんらんとしている母親にそう返して、リヴァイは「これで失礼します」と頭を下げた。ミカサを振り返る。
「……また、連絡する」
 それはミカサへの意思確認だった。父親は呆気に取られたような顔をしていた。無理もない。父親の前で娘をデートに誘っているのだから。
「……はい」
 ミカサは少し考えるふうにしたあと頷いてくれたので、リヴァイの気分は高揚した。嬉しい、と素直に思った。
 ぽかんと口を開けている父親にも一礼して、リヴァイは来た道を戻り出す。途中で一度振り返るとミカサはまだそこに立っていて、イルカのぬいぐるみのヒレを持って、それを小さく振ってくれたのだった。
 時は穏やかに流れて、季節は秋から冬に変わった。
 ミカサとは、何度かデートした。手を繋ぐことさえしないデートだが、リヴァイにとっては満ち足りた時間だった。ミカサもそう思ってくれたならいい。少なくとも彼女は、会うたび笑顔を見せてくれた。剣呑な目ばかり向けられていた昔に比べれば、ずいぶんな進歩だと思う。あの頃の自分に教えてやりたい。
 師走に入って、いよいよ仕事が多忙を極め始める頃にもリヴァイはミカサをデートに誘った。おそらく年明けまで会えなくなる可能性が高い。その前に、と思って、エルヴィンが勧めてきたイルミネーションを見に行った。エルヴィンはミカサとのことを詮索してはこないが、しれっとデートスポットの特集が載った雑誌なんかをリビングのテーブルに置いていたりして、奴なりにリヴァイを応援しているらしかった。
「リヴァイさん」
「おう」
 ミカサから名前で呼ばれるのにも慣れた。ミカサももうリヴァイを兵長と呼ぶことはしなくて、そこには昔からそう呼ばれていたような自然さがある。
 界隈でも有名なイルミネーションの展示会場に連れていくと、ミカサは無表情の中にもはっきりと目を輝かせた。
「リヴァイさん、きれい」
「そうか。……俺には、お前の方が綺麗に見えるが」
 ぼそりと呟くと、ミカサはボッと顔を赤くした。キッとリヴァイを睨み、あっちを見てくると走っていってしまった。なのにリヴァイの目が届く範囲内で止まるミカサがかわいらしくて、笑ってミカサのあとを追おうとした、そのときだった。
 ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。取り出すと、着信はエルヴィンからのものだった。一瞬無視しようとも思ったが、きっと予感めいたものがあったのだろう、リヴァイは通話ボタンを押した。
「エルヴィン」
『悪いな、ミカサとのデート中に』
「いい。それより、用件はなんだ」
 エルヴィンは沈黙して、それでリヴァイにも用件がわかった気がした。ああ、そうか。
『……エレンが、見つかった』
 動揺は、一瞬だった。
「……そうか」
 思ったより早かったが、予想はしていたことだ。遠からずエレンは見つかる。スミスの力はそれだけ大きい。タイムアウトを宣告されても、心は落ち着いていた。
『だが──』
 けれど続けられた言葉には、リヴァイも動揺を隠せなかった。動揺するなという方が無理だった。
「……それは、どういうことだ」
 低い声がもれた。電話の向こうでエルヴィンが首を振る気配がする。リヴァイの視線が、イルミネーションを楽しんでいるミカサに向いた。
 ミカサに、なんと言えばいい。確実にあの笑顔が曇ることを知っていながら。
 エルヴィンの言葉を反芻する。

『──エレン・イェーガーは、結婚している』



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