恋人のはじまり
あれから俺たちはびしょ濡れの状態で寮に帰った。途中で秋さんを迎えに行くととても驚かれた。それでも秋さんは何も聞かなかった。とてもよく出来た人だなって思ったと同時に本当に円堂の恋人になっていいんだろうと思った。けれど、寮に向かって走る時にそっと握ってくれた手に俺は安心した。
「…円堂、何か話せよ」
「…風丸こそ」
秋さんは雨が止むと帰っていった。どうやら遠出の際に寄っただけであって、明確な用事があったわけではないらしい。
秋さんが帰るまではお互いたくさん話した。円堂の小さい頃とか、円堂の親御さんのこととか。笑い声が尽きないとはこのことだった。しかし、秋さんが帰った直後、沈黙が流れてしまう。今までは特に意識してなかったけれど、好きとわかり、恋バナになった瞬間、今まで何を話していたのかわからなくなってしまったのである。そして今、ようやく俺は口を開いたのだ。
「いつもうるさいくらい喋ってただろ」
「そ、そうだったっけ」
ついに沈黙が終わったと思ったのに、またもや静寂が訪れてしまった。自分の速くなった鼓動が身体全体に響いて、円堂に聞こえてしまわないか心配する。ああ手汗が酷い、まだ春なのに。でも、こんなに意識してるのは俺だけなのだろうか。顔が熱いのも、俺だけなのだろうか。知りたくなって、円堂の顔を覗き見る。俯かれた顔はとても真っ赤で、今にも火を噴きそうな勢いだ。思わず声に出して笑ってしまった。すると円堂は目を見開いて俺のことを不思議そうに見た。「いつも通りに話そうぜ」俺は顔の熱さを少し残しながらそう言った。円堂も照れながら笑顔で頷いた。
「風丸ー!帰ろうぜ!」
昨日のことが嘘みたいにいつも通りの1日が終わった。朝も円堂は寝坊したし、半夢心地の円堂を引っ張って登校したし。お昼も緑川と円堂と食べたけど普通に盛り上がったし。もしかして昨日のことは夢なんじゃないか?と思うほどに普通だった。なんだか腑に落ちない、と思いながら教室を出て円堂と共に廊下を歩き出す。
「さっきの授業寝てたらヒロトに落書きされてさ〜」そう言ってでっかく円堂の手の甲を見せられた。そういえば中学生のとき使ってたというパンツにこんな感じで大きく名前が書いてあったな、と思い浮かべた。そんなことも普段通りで拍子抜けしてしまう。昨日のあの沈黙はどこへいったのか。全く想像もつかない。
俺は円堂の特別になれたことが嬉しい。それでもそれ以上を期待してしまうのは、俺のわがままだろうか。円堂は、そういうことをしたいと思っているのだろうか。そもそも本当に恋愛として俺のこと好きなのだろうか。ああ、一回始まったネガティブ思考は止まらない。
それでもいつも通り話す円堂に安堵しているので俺もいつも通り相槌をした。
学校を出てから少し経って、ふいに会話が途切れた。さっきまで普段以上に喋っていたくせに、急に黙ると俺だって心配する。「どうした?」と言おうとしたら、先に円堂が口を開いた。
「…あ、のさ。恋人らしいことって…してもいいの?」
「…は?」
あまりにも突拍子もない質問だったので思わず怒っているような返事をしてしまった。円堂は慌てて訂正した。
「違うんだ!別にやましいことしたいわけじゃなくて、その、手繋ぐとかキ、キスするとか…風丸は嫌?」
そのとき初めてわかった。こいつもこいつなりに悩んでたんだ。もしかしたら普段以上のお喋りさんだったのはそのせいかもしれない。するとたまらなく愛しく感じてきて、恐る恐る手を差し伸べた。円堂は不思議な顔をして差し伸べた手を見つめる。
「手繋ぐんだろ。あと…キ、キスも…ここなら誰もいない、し」
しん、とした空間の中には俺と円堂しかいなくて、お互いの吐息が聞こえそうなくらい静かだ。円堂は顔を赤く染めて俺の手を握った。ごつごつとした大きな手が俺の手を握った。石みたいだけど、暖かい手の感触を不思議な気持ちで感じた。
俺は手を繋いだまま、そっと目を瞑った。人前で目を瞑るのってなんだか恥ずかしい。そして俺の唇に柔らかい唇があてられる。触れるだけのキスが、より身体を熱くさせた。手汗、大丈夫だろうか。そう思って目を開けた。すると一瞬円堂の赤くて真面目な顔が見えて、次の瞬間抱きしめられる。「好きだ、好きだよ」耳元で囁かれた甘い言葉は、脳を麻痺させていく。「俺も好きだよ」はっきりとは言えなかったけど、せめて円堂に伝わるようにと、抱きしめる腕の力を強めた。
手を繋いだまま寮に帰ってきた。部屋に入る前に郵便受けをチェックする。たまに親からの手紙が入ってるから油断できない。開けると案の定手紙が入っていた。しかし意外だったのは俺の両親でもなく、俺宛でもなかった。円堂宛だったのだ。俺はその手紙を手にとってそばに居た円堂に手渡す。何だかわからない、といった顔で手紙を裏返すと、それまで穏やかだった栗色の瞳が大きく見開かれ、焦りと不安の色が顔から滲み出た。
「…お父様からだ」
意外な言葉に、俺も「え?」と素っ頓狂な声を出してしまった。
またもや、大波乱が起きそうな予感だ。