965 | ナノ


 かち、かち。


 部室にかかった時計の針が一定のリズムで刻む音が、今は緑間を苛立たせていた。目の前には木製の盤。そして緑間の正面には悠然と佇む赤い髪の少年。
 余った駒を片手で弄りながらじっと緑間を見つめるその目はとても穏やかで、そして見定めるように鋭かった。

「……、止まっているぞ?」

 そう薄く微笑みながら挑発する赤司に、緑間は努めてその言葉を間に受けず、自らの一手に集中した。赤司と緑間が一つの盤を挟んで駆け引きをしているのは将棋。この年にして趣味とするには些か渋いような気もするが。

 同じバスケ部に入部し、その中でも同じような気質を持った者同士は自然と近くなるのだろう。一年のまとめ役になっていた赤司をサポートするのは大抵が決まって緑間だった。緑間自身が赤司のような世間一般が定める”平均”から外れた存在であるわけでもないし、赤司が口にする突拍子のないことを緑間も思いつくわけでもない。だがほかに比べて緑間は赤司に対する理解が早く、それだけ歩み寄りも早かった。
 赤司の方からしてみても、緑間は一見他人との交流を重要視しない性分のように見える。実際必要最低限以外の馴れ合いというものを好まないが、実際は短的に言ってしまえばかなりのお人よし。まだ交友関係の浅い赤司に対しても、自身が気にもしないようなことで心配してくる。それこそ意外だったが、過度に踏み込まず付かず離れずの距離が赤司には好ましかった。今こうして差している将棋でさえ、元は単なる暇つぶしで赤司が差していたところ部活の相談に来た緑間に趣味なのかと何気なく聞かれ、何なら一局いかがかとそれこそ何気なく誘った。それが今日の出来事である。
 二人共頭脳戦は得意な部類で、殆ど初心者という緑間も中々の腕であった。しかし赤司はそれでも確実に緑間を追い詰めていき、ある程度知識がある者から見ればそれは手詰まりといった戦況であった。そうなってから約二分も経っただろうか。顎にテーピングの施された綺麗な指を添え、緑間は難しい顔をして思案していた。どうにかこの状況を覆せる一手が隠れていないか、様々な角度から考えを巡らせるも、正に四面楚歌。赤司と緑間に共通していることといえば、諦めの悪さは時に愚かな行動を取らせる。といった考えであった。
 頭の中でのシミュレーションでも万策尽き、苦々しげに言葉を吐きだした。

「…投了なのだよ」

 赤司はその言葉を受け、緑間を一瞬じっと見つめそして、ふっと微笑んだ。この男はやけに綺麗に笑うものだ、赤司と出会ってから幾度もそう思った。

「さて、これで何勝何敗かな」
「どうせどちらにも、同じ数字が入るだろうな」

 ため息を一つつくと、緑間は敗戦の地となった将棋盤の上にコトリ、と何かを追いた。それは菊の花をあしらった何かの細工物のようだった。これは?と赤司が尋ねれば、緑間の今日のラッキーアイテムらしい。最初はこの癖というか、習慣に多少は驚き変わっているとは思ったが、今ではすっかり慣れた。むしろ緑間が信仰しているそのニュース番組の占いはかなりマニアックな内容なのだ。今日はコンパクトで持ち運びが楽そうだな、などと思うくらいの余裕だってある。

「今日の俺の運勢は誰かに負けることで急降下してしまうそうなのだよ」
「ふぅん」
「しかも今日は射手座のお前が一位、負けた場合はラッキーアイテムをその相手に渡すことで運勢が下がるのを抑えられるのだよ」
「なんだか呪いみたいだな」

 そんなやり取りをしながら、盤上にあるそれを手に取る。片手に余裕で収まるくらいの大きさのそれは蝶番で開閉ができるようだ。近くで見てみれば、貝殻から出来ているらしいそれを開けてみると、何かの小物入れなのだろうか。母の実家で似たような物を見たことでもあったのかもしれない。

「それで、これをくれるのか?」
「ああ」

 至って真面目な表情で言う緑間。本当に占い関連には抜かりがない。関心さえする。

「ふふ。それじゃあ頂くよ」

 まるで戦利品みたいだな、などと思いながら緑間から貰ったきらきらと光を反射する貝細工を仕舞おうと席を立ち背を向ける。
 そろそろ帰ろうかとふと思い、窓の外に視線を流す。天気予報通り、しとしとと柔らかいにわか雨が降っていた。これくらいなら無くても平気そうだが、傘を持ってきておいて正解だった。後ろからは将棋の駒を片付ける音が聞こえる。矢張り人と差す方が面白味がある。機会があればまた緑間を誘ってみよう。赤司が外を見ながらそうぼんやりと考えていると、そこでふっと何か疑問が頭の中に浮上してきた。真っ白で波紋も見当たらない泉の中に、突如異物が浮かび上がってきたような違和感。それは後ろで片付けをしていた緑間も丁度、同じように感じた違和感だった。
 共に回転の早い頭を総動員し、自分たちが犯した違和感の正体を特定する。間違いない。二人で将棋をするのは、今日が初めての筈で記憶の齟齬などでは決してない。それなのにまるで、昔から何局も何局も差してきたかのような馴染み深い感覚。
相手の一手先を読むのは赤司の得意分野だ。だがそれにしても先程の対局はするすると読めた。何回も差した相手の行動パターンを覚えているかのような。だがいくらなんでも、初めて差す相手にあそこまで堅実に確実に攻められたのは、今考えれば正直かなり気味が悪い。そこまで考えて、更に深く思考を逡巡させようとする赤司だが、赤司、と名を呼ばれたことによって思考の泥沼から這い出ることができた。

「…これ以上長居していたら雨がひどくなりそうだ。今日は帰ろう」

立ち上がりそう言う緑間は、振り返った赤司の顔をあまり見ないようにした。

「そうだな…」

 雨音は先ほどと変わらないが、雲の厚みが濃くなっている。これから先強くなるのだろうか。部活のメニューの話等をしながら途中で別れる。

「そういえば、さっきの貝細工は緑間の物か?」
「ああ…いや、確か母方の家から見つけたものらしい」
「大事な物なんじゃないのか。どうせあげるんだったら女子にやれば喜ぶだろう」
「何の話だ…」

くすくすと笑いながら言う辺りからかわれているのだろうと呆れ気味の緑間だが、実際知性的な彼に好意を寄せる女子生徒は少なくない。

「まあ、返さないけどね。……それじゃあ」

 二股に分かれた道。片方が緑間の家につながり、もう片方が赤司の家に繋がっている。どうも読めない男だ、と緑間は内心ごちり赤司に背を向ける。ぱたぱたと傘に雨が打ち付けるまばらな音に耳を傾けるが、二、三歩踏み出した時背後から聞こえた音はそれこそまばらで。

「投了だ」

 理論も秩序もまばらだが、何よりもその声色が朧げだった。ついさっきまで会話をしていた凛とした声。でも一つ一つの言葉を拾いながら読み上げるかのようなそれは緑間の脳裏にすうと染み込んでいった。
 目を見開き足を止め、ゆっくりと振り返る。きょとん、とまるで理解できないことを突きつけられた子供のような表情の赤司が目の前にいて。