一人じゃ息も出来ない癖をして | ナノ


さらさらと滑らかに紙の上を行き来する音に紫原は安心感を覚えていた。
本人の性格をそのまま表したかのような綺麗な字を眺めながら、そのまま視線を横で黙々と部誌を仕上げている赤司に移していった。この間より少し前髪が伸びただろうか。
長く濃い睫毛が瞬きの度に揺れる様に、紫原は見とれていた。
話しかけたら邪魔をしてしまうだろうからと黙っていたのだが、その沈黙は赤司本人から破られてしまった。

「敦、そろそろ帰ったらどうだ?」

視線は部誌から離さず、ただ言葉のみをこちらに向けてきた赤司に一瞬驚いたものの、紫原は直ぐにやる気のない声で渋った。

「えー…いいよ、赤ちんが終わるまで待ってる」
「お前の所の電車はそろそろ終電だろう?」
「いいもんそしたら赤ちんの所に泊めてもらうから」

他愛もないやり取り。だが、このようなやり取りが前と同じように続くのは、今となってはこの二人くらいのものである。

青峰の才能が本格的に開花し始めたのをきっかけとするように、いや、ただ時期が重なっただけなのかもしれないが、とにかくキセキ達それぞれの才能が開花した。
以前にも増して他校との実力差が付き、帝光は王者の名を欲しいままにした。だが。強すぎる力を手に入れた彼らと対等に渡り合えるような猛者はもう存在しておらず、彼らはやり場のない虚無感に苛まれることとなった。
元々バスケを好きという気持ちが強い彼らだからこそ、バスケに対する思いも段々と屈折していった。青峰はそれが最も顕著に出てしまい、彼の相棒である黒子にも影響が出てしまった。
黄瀬や緑間も、それに引きずられるように以前のようなチーム以外での繋がりが薄くなってしまった。
全中三連覇という偉業を成し遂げたにしても、キセキの世代その物は、今となっては既に破綻しかけていた。そういった感情が曖昧な紫原は今でも赤司に対して変わらない態度を取っている。
赤司本人は気付いていないのかもしれないが、性格に反して中々鋭い紫原から見て見れば、もし今ここで自分まで赤司から離れてしまったら、赤司は崩れ落ちてしまうのではないかと心配していた。

「赤ちんだいぶ良くなってきたね、怪我」

紫原はふいに赤司の目蓋の辺りの髪に触れ、それをそっと避けるとそこに薄く残る傷跡を労わる様に撫でた。

「目の方、だいじょーぶ?」
「ああ……。まあ慣れてきたかな」

三か月ほど前の忌まわしい記憶。紫原はそのことを思い返すだけで胸がむかむかとしてくるようだった。
新参者の、自分の気に入らない犬に自分の大切な物を傷つけられた。

あの時、病院で手当てを受ける前に応急処置をするために見た赤司の傷。制服の上から見たら分からないように、という事だろうが。内出血等による夥しい数の青痣や、左目にこびり付いた血液が赤司の元々あまり焼けない白い肌にコントラストを作り出していて、痛々しさを増長させていた。
普段の凛とし、何者に対しても厳かな態度を崩すことのない赤司の血の気の無い顔を見て、紫原はこの傷をつけたであろう相手を本気で捻り潰したくなる衝動に駆られた。灰崎本人がやったのか、それとも複数がやったのかは分からないが、大事な者を傷つけられた紫原は、自らを責め暫く落ち込んでいた。
赤司の意識が戻った時には既に灰崎は退部届を出していたようで、学校生活に戻るころには、灰崎の姿を見ることは無くなった。赤司も灰崎に関することについては一切喋らず、ただ、噂でバスケ部の先輩が高校を退学や停学になったなどのことを聞いた覚えがある。痣は時間がたてば段々と治っていくからいいが、左目に関しては駄目だった。
医者の話によれば、視力が無くなることは無いが以前よりも物を視認することが難しくなりやすくなってしまい、バスケを以前の様にやれるかどうかは分からない、とのこと。更に眼球へのダメージも受けてしまい、綺麗な赤い一対の眼は、今は片方の色素が落ち黄色の様な色になった。紫原はその色を綺麗だと思ったし、本人はそのことを気にしておらず、バスケに置いても以前と変わらずプレーし指示にも狂いが無いのはさすがと言ったところだろう。
だが、それは最大限注意しているからであって、最初の頃は私生活に於いてはやはり左側が死角のようになってしまっていた。赤司はそういったことを悟られるのを何よりも嫌う。だが紫原に対しては赤司も心を許しているのか、そういったことを曝け出していた。件の事件以降紫原は前に増して赤司の傍に居たがるし、赤司もそれを良しとしていた。二人だけに、なってしまった。

「敦」

赤司がもう一度、帰れと促す。

「俺も終わらせたら帰るから」

赤司の所は紫原よりも一本電車が多い。赤司の言う事は絶対だし紫原も反抗する気は無い。本当は赤ちんと一緒に帰りたいんだけどと紫原が言えば今度な、と軽く頭を撫でられる。

「気を付けて帰れよ」
「それ、俺に言ってもあんま意味ないと思うんだけど」

2m越えの男を好んで襲おうなどという通り魔がいたらぜひ教えて欲しいものだ。

だが、この時紫原は、赤司に嫌われてでも言う事を聞かない方が良かったのかもしれない。
飼い馴らされると鼻が利かなくなるというのは、案外当たっているかもしれないのだから。
もう、戻れるなんて思ってはいない。

あの頃の俺達に戻れるなんて、期待も。
でも、それでも。

バスケという繋がりさえあれば、いつかまた。なんて思いたがる女々しい自分がいるのも確かで。

部誌を纏め終え、桃井に明日のメニューについての連絡をメールで入れた後、赤司は自らも帰る支度を始める。すると背後で部室のドアを開ける音。紫原だろうか。

「どうした敦。まだ何か」

用があるのか。そう言い振り向いた赤司は、部室の入り口に立つ紫原ではない男を見て硬直した。

「悪かったなぁ、アツシじゃなくて」

けど用があるのは俺なんだよ、と言いせせら笑うのは紛れもなく灰崎で。

「…何。殺されにでも来たの?」
「あ?そーいやそんなことも言ってたっけな。けど殺されるのは勘弁、代わりに」

褒美を貰いに来た。そう言う灰崎に、赤司は鼻で笑い吐き捨てた。

「何もしてない駄犬に与えるご褒美何てあるわけないだろう、それに、お前はもう俺の飼い犬じゃない」
「だよなぁ。でも俺は別に貰わなくてもいいんだぜ?」

大人でも竦むほどの殺気を放ちながらの赤司の言葉にも動じることのない灰崎は、不敵な笑みを更に濃くした。

「俺は褒美が欲しい。だから取りに来た」



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