オルカ・オルカ | ナノ







「それでは、水泳部の設立を祝いまして!」
「かんぱーい!」
「か、かんぱーい……?」

 手に持った紙コップを皆に合わせて軽く持ち上げて、困惑を隠しきれないまま小さく声を出す。中には八分ほどまで注がれた紅茶が揺れていた。
 橘くんに引かれるまま辿り着いたのは、水泳部の人たちが集まるプールサイドだった。どうやら私たちが最後だったようで、待ちくたびれた渚くんが「マコちゃんもつーちゃんも遅いよー!」とお怒りだった。それから今度は橘くんからバトンタッチしたコウちゃんに腕を引かれ、混乱している間にあれよあれよと輪の中に組み込まれ、紙コップを渡されて、今に至る。
 流されるままに来てしまったけど、本当に私がここにいていいのだろうか。というか明らかに私だけ場違いじゃないだろうか。正式な部員でもないのに。朗らかに笑うコウちゃんと橘くんの間で思案する私の紙コップに、誰かのコップのふちが当たる。

「安土さんも、うちの応援団長なんだから。ね?」

 まるで私の考えを読み取ったかのような声に彼を見上げると、不安を取り除くようにふにゃりと笑う橘くん。空気が一瞬で和らいで、心の中にあったわだかまりがみるみるうちに溶けていく。はああ、やばい、浄化される。これぞまさに大天使。やっぱりマイナスイオンなんて不確かなものより橘くんだ。橘くんさえいればどんなに淀んだ水質だって濾過されるに違いない。橘くんの癒し効果すごい。

「そうですよ! つばさちゃんはもう水泳部の一員なんですからね!」

 離しません! とばかりに私のブレザーの裾をつかんだのは、正式にマネージャーとして四人目の部員となったコウちゃんだ。むっと頬を膨らませて力説する様があまりにかわいくて、私は「ありがとう〜!」と我ながらあからさまに頬を緩めながら衝動のまま抱きしめた。はぁ、和む。松岡許さん。理不尽な怒りよ松岡へ届け。なお決して気恥ずかしさから橘くんから逃げたわけではないことをここに記す。

「まだ泳ぐには少し寒いけど、テストもかねて水を入れてみたから」

 天ちゃん先生の声に、そういえばここに来るまで(橘くんに意識の全てを奪われていたため)完全に視界から外れていた背後へと振り返り、目を見張った。
 あれだけ廃れていたプールが、なんということでしょう。熱心な匠たちの手によって息を吹き返したプールには、透き通った水が張られていた。揺れる水面。ちらちらと浮かぶ桜の花弁が、綺麗だ。
 あんなに頑張ったんだもんなぁ。橘くんたちが毎日頑張っていたことを知っているから、どうしても感慨深くなってしまう。
 完成したプールに見入っていると、とんとんと肩を叩いて、天ちゃん先生が何かを手渡してきた。手のひらに収まる、小さな白い塊。あ、これ、プールの底にたまにあったやつだ。

「あとはこれを、みんなで……」

 それぞれ塩素剤を受け取った皆で適当な間隔を空けて並び、「それ!」という天ちゃん先生の掛け声に合わせて水面に投げ入れた。これで本当に、岩鳶高校の屋外プールの完成だ。
 しかしいよいよと言うべき水泳部始動の感動に浸る間も無く、七瀬がプールに飛び込んだことにより、俄かにプールサイド(というか橘くん)は大騒ぎになった。なんとなく視界の端っこでそわそわしていたから、若干こうなる気はしていた……とは言えない。慌てる橘くんや、のほほんと和んでいる渚くん、筋肉にときめいているコウちゃんの横で、なんとなくぼんやりとしてしまっている私は何故か揺れる水面に視線を奪われていて、いつものような「また橘くんを焦らせて!」なんて怒りは、吐き出した息に混じって溶けてしまった。

(ここでまた、橘くんたちが泳ぐんだ)

 思い出すのは、やっぱり彼の背中だった。渚くんに部活動設立申請書を渡す時にだって思い出した、それ。スイミングクラブへ七瀬と一緒に向かう背中。中学の時の、一人で部活へ向かって行った、ほんの少しだけ丸まった背中。……いつしか、プールから離れて行った、寂しい背中。
 もう、離れないといい。丸まらないといい。寂しくないといい。今はただ、その背中がこの場所にあることが、嬉しい。

「どうしたの?」
「ひぇっ!?」

 騒ぐ輪に加わらず意識を飛ばしている私を心配してか、季節も考えず水の中で悠々と泳ぐ七瀬を追いかけていた橘くんがひょこりと顔を覗かせて首を傾げる。私は慌てて言葉を探すが、しかし、まさか橘くんのことを考えただなんて言えるはずもない。
 咄嗟に口から零れ落ちたのは、ほんの少しだけ残っている後ろめたさだった。

「あ、えと、……私プール直す手伝いもしてないんだけどなあって思ったら、やっぱりちょっと申し訳なくて」
「……してくれたんだけどなあ」
「え?」

 ぽつりと橘くんが呟いた声は私まで届かなくて、聞き返すしても橘くんは朗らかに笑いながら「なんでもないよ、」と笑うだけだった。橘くんの言葉を聞き逃すだなんて我ながらなんたる不覚……! あ、でももしかしたら本当にただの独り言で私には聞かれたくなかったのかもしれない。そうだとしたら聞かなくて良かった!
 うんうんと一人勝手に納得していると、どこかへ姿を消していたコウちゃんが網を持って帰ってきた。まさかのまさか、それで七瀬を捕獲する気らしい。ナイスアイデア、よくやったコウちゃんもっとやれ。心の中でサムズアップをするが、橘くんは気が気でないらしく、七瀬へプールから上がるよう交渉しに駆けていく。
 大好きな背中。哀愁も何もないそれをぼんやりと眺めていると、泳ぐ七瀬を眺めていた橘くんと渚くんが入れ違いにこちらへ小走りで駆け寄ってきた。それから私の顔を見て、ふふ、と柔らかく笑う。やっぱり渚くんの笑顔はちょっとだけ、橘くんに似ている。

「つーちゃん、なんだか嬉しそう」
「そうかな? ……うん、そうだね、やっぱり嬉しいや」

 口にした肯定はすとんと心に落ちて、渚くんと顔を見合わせて笑った。嬉しいよ、すごく。

「ありがとうね、渚くん。水泳部、作ってくれて」
「こちらこそ、つーちゃんが応援団長になってくれて嬉しいよ!」
「あ、やっぱりそれ確定なんだ……」
「トーゼン! ……ねぇ、つーちゃん。これは内緒なんだけどね?」

 渚くんが耳元に顔を寄せる。なんだろう。念のためきょろりと周りの意識がこちらに向いてないことを確認してから耳を傾ける、と。あのねから始まる、内緒の話。
 それを聞いた途端私は耳まで熱を帯びて、頭を抱えてしゃがみ込むことしかできなかったのだった。


ふにゃふにゃさん


「マコちゃんたらね、『お祝いするなら安土さんも呼んでくるから待ってて!』とか言って急に飛び出してっちゃったんだよ。だからね、きっとつーちゃんが応援団長をやってくれて一番喜んでるの、マコちゃんだと思うんだ」


------------------
20140716
201906 加筆


BACK
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -