「あっ、やめ…ろっ」
「かわいい、わんわん」
「その…っ、呼び方やめ…ひあっ…ま、まつか、わあ…っ!」
「こうきだってば」



ぺちゃ、ぴちゃと。

耳たぶあたりからダイレクトに嫌な水音が聞こえてくる。
涙が滲んだ視界の端に見えるのは見慣れた金色の髪。俺の両腕を掴んで肩に顎を乗せている松川は嬉しそうに俺の耳を舐める。足は痛いからあまり動かせないので抵抗出来ない。…かれこれ30分くらいこれだ。…たぶん、こいつは俺を殺すつもりなんだと思う…!

「さあさあ、吐いてしまえ」

「いやだ…っての!」


ぞわぞわと鳥肌が立つ。なのに嫌じゃない…というかぞくぞくする。嗚呼、そんな自分をぶん殴りたい…!
というか俺は平凡で普通に女の子が好きだった筈で…
日曜午後6時のフジの海の幸の家のような平和な家庭を…!

「考え事とは余裕だねぇ」

「げ」

くすくすと心底楽しそうな声が耳元で聞こえる。
やばいと思った時には、もう遅く首筋にちりりとした痛みが走った。

「……ぅあっ」

ぎゃああああああああああ
たぶんあれか、キスマークか!

「おー付いた付いた。俺、天才的!」

「も、…しね」

「ホントに死んじゃうぞ?」

「ごめんなさい」


涙目で反撃をあっさりかわされた俺に微笑んで松川は再びまた俺の首筋に顔を埋めた。生ぬるい舌が這う感覚にぞわりと肌が粟立つ。
ああ、もう限界だ…!いや、健全な意味で。


「ぎ、ギブアップ……!!」




ーーーー……………



「ほう、ご結婚ね。それで泣いてたの」

「…は、はい」

はだけたシャツはそのままにベッドの上で正座する俺の横に寝そべる松川は、にんまりと笑って事のあらましを口に出した。その爽やかな笑顔がいたたまれない。

「でも、違うよね」

「は?」

「寂しいから、俺のとこに来たの?」

それは、ちゃんと答えられる。

「違う。辛かったのは確かだ。…でも寂しいから誰かによりかかりたかったんじゃなくて、顔を見て安心したかった」

結局は甘えるような結果にはなってしまったけど。

そう付け足して俯くと、ぎゅうと松川に抱き寄せられた。てっきり泣きわめくと思ったのに予想外の大人な反応で、思わずきょとんと目を見開いて松川をじっと見つめた。俺に笑いかけるその瞳は、甘いような雰囲気で。

「よく、本人達に当たらなかったね」

えらいえらいと、ポンポン軽く背中をたたかれて、ふっと力が抜けていく。

ああ、やっぱりこいつは優しい。わかっていたんだ、俺の張り詰めてた糸に気づいて、緩めてくれたんだ。

さっきまでの忌まわしい30分がまるで無かったかのような清々しさで笑う松川に、俺も再び気を緩めた。

「…ありがとな、…広樹」

「!」

ぱあっと嬉しそうに目をきらきらさせる松川に苦笑する。
だが、すまない、俺はつい最近までお前のことを“ひろき”と思っていたんだ……!!
絶対言えないけど。

「じゃあ、俺そろそろ――」
「ストップ」

瞬間、再び視界が松川でいっぱいになった。つまり、押し倒されている。
……………ちょっと待て、終わったんじゃないのか?!


「おい、待て!まだ――」

「俺はね好きな子に悪戯していたぶって名前まで呼ばれて耐えられるほど、我慢強いタイプではないんだよ―?けーんごっ」

焦る俺の耳元で甘ったるい声の松川が囁く。うわ、なんかまたぞくぞくするんだが…!

「ちょっ、こう…、っ――!!」

するすると身体をまさぐる手が、腰に移動してきて、嫌な汗がたらりと流れた。


「待て待て松川話せばわかる!」
「犬吾喰わぬは男の恥」
「違うだろ!」
「え―?あ、羊喰わぬは狼の恥」
「生々しいわ!据え膳だ据え膳!」
「いやだ―、ナマとかはっずかしー!」
「広樹ぃぃぃぃっ!!!」

がっしいっ



そんな音と共に、松川が俺のベルトを掴み、口唇で口唇が塞がれた。



「犬吾、げっとだぜ!」
「そういう場で言うな!!」







…………神様、本命同士には時間とかは関係ないのでしょうか。






ーーーーーーー

翌日の昼過ぎ。

俺は朝に帰って来てからずっと自分の部屋にいた。
静架先輩と兄貴は昨日は俺を心配しつつも引き上げたようで、寝ずに待っていてくれた母さんは松川に背負われて帰って来た傷だらけの俺を見て涙目になりながらも一発張り手を喰らわした。足の怪我もとても心配してくれたし、昨日の俺の反応で俺が静架先輩を好きだったと気づいてしまったらしい。ばかな子ばかな子と泣きながら、松川と同じようにえらかったねと俺を抱きしめてくれて、俺はまた泣いてしまった。…言っておくが俺はマザコンじゃない。

そして、松川が去った後、足の怪我を心配した母さんから部屋から出るなと言われて今に至る。

しかし母さん、ごめん…。
俺はひとつ嘘を吐いた。

一人じゃうまく立てないのも、身体中が痛いのも、顔色が悪いのも、寝不足なのも、全部が足の痛みのせいだけじゃなくて。

「……腰、痛い」


…この一言でわかる奴はわかるだろう。あれだ、大切な何かを失いました、俺。


『犬吾かわいかったねぇ、足治ったらまたヤろうか?』


朝、目が覚めていきなりキスしてきやがったあのお綺麗な顔を心底憎く感じたのはあれが初めてかもしれない。

しかも、結局あの後は朝までだった………。ムカつく新婚カップル的に言えば「朝まで放してくれなかった(はあと)」な感じ。ああもう俺の頭は湧いたらしい。



――だけど、正直言えば嫌じゃなかった。

好きだと自覚してしまえば、俺はあっさり受け入れるタイプだったらしい。…それもどうかと思うけど。


「俺らしくて、いいかな」

「犬吾ー」

ふっと苦笑すると、不意に母さんが部屋に入って来て、少し大きめの茶封筒を俺に渡して、去っていった。
誰かが俺宛に、郵便ではなくそのままポストに入れていったようだけど心当たりがまるで無い。

「?」

首を傾げながら、開くと。


「…………湿布」

がくり、その場に崩れおれる。

……………薫だ。

証拠に俺と松川が手伝った本が同封されているし(別にいらないんだが一応読んでおこう)、なんか小さな紙切れに『ゆっくり休めろ主に腰を(はあと)』と書いてある。…因みに松川には薫には言うなと口止めしてあるから、きっとこれは薫の直感からの行動。薫曰わくその直感力を腐男子センサー又は腐女子センサーと呼ぶらしい。

「……なんかもう、 薫には勝てないな」






ふうとため息を吐いて、窓を見つめる。
なんだかんだで、松川とのことは一段落ついたけど、問題は山積みだ。

兄貴と話をしなきゃいけない。


いつになるかはわからない。きちんと話せるようになるまでまだまだ時間がかかるだろう。


だけど




「あ」

携帯が鳴る。ディスプレイに表示された名前に、胸があたたかくなった。



「―――松……、…広樹」




“本命”がいれば、問題もちゃんと片づけられると思うのだ。





04・end

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