「何も水ぶっ掛けることないだろうに…」
一人でぼやきながら廊下を歩く。自分の歩いた道に沿ってポタポタと制服から水が滴り落ちた。私は今全身びしょ濡れだった。なぜかと言うと遡ること数分前。クラスの女子たちに女子トイレまで召喚されて「アンタバスケ部のマネージャーになったの?どんだけ男好きなの?私の彼氏奪っただけじゃ物足りなかった?」と散々文句を言われ言い返したらこの様だ。我がクラスの女子たちはなんて凶暴な女たちなんだ。いや女というよりゴリラだよ。メスゴリラだ。挙句の果てには突き飛ばされた衝撃で足がグキリ。軽い捻挫だと思うけど痛いもんは痛いぜマミー。そうして昼休みという貴重な時間を無駄にしてしまったわけだが、とりあえず着替えるべく保健室に向かった。
「失礼しまーす…って、何してんの」
緑間。保健室に入って一番に視界に入ってきた男の名前を呼ぶと相変わらず堅苦しい表情で「お前こそ何しに来たのだよ」と質問を質問で返される。まず私の質問に答えろよ。
「私の現状見て察してよ」
「水浴びでもしたのか」
「そのメガネ叩き割るぞ」
そう言って濡れた制服を絞ると「そこで絞るな」と緑間はその場から立ち上がり保健室のタオルを私に投げつけて来た。どうやら彼は保健委員ってこの時間が当番らしい。よくもまぁ律儀に委員会の仕事なんてやるなぁ。
「さっさと拭け。風邪をひくぞ」
「ありがとう。意外に優しいんだね緑間は。いつも無表情だから感じ悪いやつなのかと思ってた」
「フン、馬鹿め。保健委員だから仕方なくしてやっただけなのだよ」
「おー、ありがとありがと」
照れ隠しなのか眼鏡のブリッジを押し上げて顔を逸らす緑間にお礼を言うと少し満足げだった。なんか堅苦しいやつだと思っていたけど意外に可愛いところがあるみたいだ。なんて言うんだっけ、こうゆうの。ツンデレ?
「ずっとその格好でいる気か」
「ジャージあるよ。5時間目体育だからついでに持ってきた」
ここに来る前に一度ずぶ濡れな状態でも教室にジャージを取りに行ってある。教室にいた黒子には酷く心配されたけど「漏らした」と冗談で返したらまったく信じてくれなかったけど深くは追求してこなかった。
「着替えるから覗かないでね」
そう言って空いてるベッドのカーテンを閉めればカーテンの外から「誰も見ないのだよ!!」と聞こえてきた。
「ところでセンセーいないの?」
「外出しているのだよ」
着替え終わりカーテンを開ける。緑間の答えに納得して濡れた制服を窓の手すりに干した。
「手当てはセルフってことね」
「怪我しているのか?」
「うーん、ちょっと足捻った」
そう言って勝手に保健室の棚を漁り湿布を探していると後ろから緑間の手が伸びてきて私より先に湿布を見つけてそれを取り上げた。
「あ、」
「そこに座っていろ」
「ん?」
「手当て、してやるのだよ」
緑間ってこんなキャラだっけ?私バスケ部に入ってまた全然日が経ってないし緑間と話したのだって1、2回程度だけどいつもムッとしてたから陰険な奴だと思っていた。でもこの人は根が優しいんだろう。
「お前はバスケ部に来た時も怪我だらけだったな」
「あー、あれはね。うん。まあいろいろあるのよ」
「今回も誰かにやられたのか」
「え?今回もって、なに」
「俺のクラスの女子たちがお前の話をしていた。あまり良い話ではなかったのだよ」
「苗字名前は同じクラスの女子から男を奪ってクラスで虐められてる挙句男に媚びてバスケ部のマネージャーになったビッチ女だから気に食わねえムカつく死ねって?」
「………」
「あらら、大正解?」
緑間の言いにくそうな表情が答えだった。ただ黙る緑間は器用に私の足首に湿布を貼ってその上からテープで固定する。
「別に私に気を使わなくていいよ。いつものことだし」
「…死ねまでは言っていなかったのだよ」
「ムカつくまでは言ってたんかい」
「…できたのだよ。あまり動かさないほうがいい」
「ありがとー」
うまく話をはぐらかされた気がするけど、手当てをしてくれた緑間に鞄に入ってたチョコレートを渡した。貰ってやる、と言って受け取った緑間は恐らく最上級のツンデレと言っていいだろう。そして、そのまま私の正面に立ったまま私を見下ろす。
「なんスか……」
「正直、俺はお前がバスケ部のマネージャーになることは認めたくはない」
「ん?」
「虹村主将や赤司がお前の実力を知った上でお前をマネージャーにしたがる理由もわかるが、バスケが嫌いで辞めたと言った人間を俺は認めたくはないのだよ」
何となくわかっていた。緑間は真面目な人だからバスケに対してもちゃんと向き合って努力してる人間だ。だから私みたいにバスケを辞めた半端な人間が嫌だってこと。緑間だけじゃない。バスケ部の部員たちだって同じだ。現にバスケが大好きな青峰は私を嫌っているのだから。
「嫌いだというくせにどうしてマネージャーになった?」
「……好きになりたかったから」
「……?」
「マネージャーになったのは、また私がバスケを好きになりたかったから。私の代わりに目標になってくれる人がいたから」
「意味がわからないのだよ」
「えー、わからないの?ちゃんと真面目に答えたのに」
「言葉の意図が掴めないのだよ」
「仕方ないなぁ、今回は特別に名前ちゃんの秘密を教えてあげちゃうよっ!」
「キモい」
「おい」
「まあ座りたまえ!」とふざけて私の膝の上をポンポンと叩けば真顔で私の正面のベンチに腰を下ろした緑間は後日処すことにする。
「まあ、何から話したらいいのかな。あ、そうだ!私がアメリカにいた時の話にしよう!」
「聞いて需要があるのか」
「アメリカでパリスヒルトンを見た話なんだけど」
「省け」
「……じゃあ簡単に言うね。私、ジュニア選抜候補にいたって言ったでしょ」
「あぁ」
「ま、外されちゃったわけですがー」
私は笑って話してるのに聞いている側の緑間は私より深刻な顔をして黙って私の話を聞いていた。
「外された理由は、私がもうバスケ出来なくなったから」
「出来なくなった?」
「突き落されたの、階段から。ドスコーイって」
「突き落とされたって、誰に…」
「お兄ちゃん」
「…!」
今でも鮮明に覚えてる。宙に浮いて落ちていく私を「ざまぁみろ」と言いたげに、だけど悲しそうに泣きながら笑った実の兄の顔を。
「いいよな、お前は…。親にも甘やかされて、自由に生きていけて。そのくせに何でも俺から奪ってくんだからよ…俺だってお前からひとつくらい奪ってもいいだろ」
あの目が忘れられない。あの不気味で、だけど悲しい笑顔が忘れられない。落ちる瞬間に見えた兄の姿が今でも忘れられなくて、血の繋がった家族を怖いと思った。
兄は昔から私のことが嫌いだった。同じ両親から生まれて、同じ血を分けた兄妹でも、私と兄は別の人間であって、別の人生があって、その違いが私たちの溝を深くした。
「ま、ちょっと大袈裟なキョウダイ喧嘩をしただけだよ。だからそんな深刻そうな顔をしなさんな、緑間クンよ」
「……」
「怪我についてはね、医者からは生活に支障はないって言われた。この通りちゃんと動くしね。でも今まで通りのバスケは出来ないって」
「………」
「右腕の筋力が全然ないの。最低限物は持てるし、痛みもないよ?でも極端に重いものを持つこととか、物を投げたりする腕力がない」
だから、ボールも投げられない。
そう言った私の言葉に緑間は少し目を見開いて、そしてゆっくりと目を伏せた。きっと返す言葉に困っているんだろう。その時に見えた睫毛が長いなー、なんて私は呑気に思ったりした。
「私の腕が使えないってわかったら、簡単に選抜メンバーから外されちゃってさぁ。そしたら私の居場所なんて簡単になくなっちゃって」
「………」
「だから、辞めたの」
「………」
「バスケは好きだったよ。練習すればするほど上達して、出来ないことが出来るようになるのは嬉しかったし楽しかった。でも、それはもう昔の話。もう空っぽなんだよ、私」
あれ、なんか結局重い話になったね!?と言えば私の言葉に緑間はしばらく考え混んで、悩んだ末に出てきた言葉は「悪かった」だった。
「ん?何で緑間が謝るの?」
「お前は人事も尽くさずバスケを諦めた半端な人間だと勝手に思い込んでいた。だからマネージャーだと認めたくなかった。お前を責めるような言い方をして悪かったのだよ…」
なんでアンタが悲しそうな顔するの、と笑ってやりたくもなったが、これは緑間が私の事を思って言ってくれた言葉なんだろう。
「緑間の認識は間違ってないよ。私はバスケを諦めた半端な人間」
「………」
「続けようと思えば出来たんだよ。でもそうしなかったのは、怖かったから。失ったものを理由に周りから評価されるのが怖かったの。どんなに悔しくても、どんなに頑張っても、もう私の投げたボールがゴールに届かないから。無駄だから。楽しくないから。嫌いだから」
全部投げ出した。空っぽになった気がした。私からバスケを取れば何も残らなかった。空っぽだった。
「私にはもう何も残ってない」
だから頑張ることはもう辞めた。
バスケを、辞めた。
「それでもバスケ下手くそなくせにこんな私のために目標になるって、頑張るって言ってる変な奴がいるの」
だから、そいつに。黒子に。
賭けてみてもいいかなって思った。
「マネージャーになったのは、私のため」
私が、またバスケを好きになるため。
だから、
「やるからには尽くすよ、緑間の言う人事ってやつ」
文句は言うかもしれないけどね、そう付け足したら緑間は少し驚いたような顔をして、それからフッ、と小さく笑う。こいつも人並みに笑うのか。
「だったらまず朝練に遅刻しないことだな」
「今日のは許してよ。朝連のことに関しては何も伝えられてなかったんだから」
「お前がバスケに対してどう向き合っていくかなど興味はないが、お前が人事を尽くすというなら俺は何も言わないのだよ」
「それって私がマネージャーやるの認めてくれるってこと?」
「自分で考えろ、馬鹿め」
「あらら、照れてるの?可愛いところあるのね緑間クンったら!」
「照れてなどいないのだよ!!!」
言葉とは裏腹に赤くなる緑間をからかっていると予鈴がなる。
「あ、次体育だったんだ。私もう行くねー。手当てありがとー」
そう言って保健室の扉に手をかけると「苗字」と緑間が私を呼び止めた。
「嫌がらせが続くようなら、俺なり赤司なりに相談すればいい」
「………なに?緑間と赤司がバックについてくれたりすんの?怖そ〜」
「こっちは本気で心配してやってるのだよ」
「へえ、心配してくれてるんだ」
「なっ…!さっさと行け!」
「はいはい、言われなくても行きますよー」
ありがとね、と小さく笑った名前の声は確かに緑間の耳に届いていた。名前が保健室から出で行くのを見届けて静かにドアが閉まるのを確認すると緑間はその場から立ち上がりベッドの方へ向かっていく。閉まりきったカーテンを開けてベッドを占拠する人物にこう言った。
「散々盗み聞きしていたんだからわかったと思うが、苗字はお前が思ってるような人間ではないと思うぞ」
「………」
「お前のクラスも次の授業は体育だったな。早く行かないと遅刻するぞ、青峰」
ずっと占拠されていたベッドに誰が居たかなんて彼女は知らなかった。