「おはよー黒子」
「!?」
「何そんなびっくりした顔してんの」
朝、ギリギリ遅刻(つまり遅刻)で登校してきて下駄箱に入ってるゴミやら画鋲やらをどうにかして、クラスの女子たち睨まれながら教室に入り、後ろの席の黒子に挨拶をするのはここ最近の私の日課だった。「もうHR終わりましたよ」と言う彼とは先日の席替えで席が前後になってから話すようになった。黒子は毎回私が挨拶すれば驚いた顔をして私を見上げていた。
「当たり前のように挨拶されるのが慣れなくて…僕に気づいて挨拶してくれるのは苗字さんくらいですし」
「それ悲しくない?黒子って友達いないの?」
「それは苗字さんじゃないですか」
「私いま傷ついたよ!謝って!」
「すみません」
「許す。ねえ1時間目なんだっけ」
「数学です」
そう言って席に座り黒子とどうでもいい話をしながら机の中に置き勉していた算数の教科書を引っ張りだして机の上に雑に置くとそれを見た黒子は顔を歪めた。
「なに?どしたの?」
「表紙すごいことになってますよ」
「え?」
言われて見てみると表紙に"ヤリマン苗字クソビッチ死ね"と書かれていた。私の顔色を伺いながら黒子が「大丈夫ですか?」と心配そうに尋ねてくる。
「大丈夫、大丈夫。私まだ処女だから」
「え、何が大丈夫なんですか。誰もそんな情報聞いてません」
「ねえ真顔やめて。ていうか見てよご丁寧に接着剤で全部ページくっついてるよ。これじゃあ算数受けられないじゃん」
「算数じゃなくて数学ですよ」
「いいじゃん細かいことは」
いつまで小学生やってるんですか、となかなか手厳しいお言葉をいただいた。黒子がちょっと毒舌だということはつい最近知ったことだ。まあ仲良し故のだよね?…と思いたい。
「あまり酷いようなら先生に言ったほうが…」
「んー、自分の手に負えなくなったらね」
「僕に出来ることがあれば言ってくださいね」
「ありがと。その時は黒子にヘルプでも出すよ」
「はい」
「黒子って優しいよね。私けっこう黒子のそうゆうところ好きだよ」
「……ありがとう、ございます」
「…?」
ありがとう、と言ったわりには随分素っ気なく目を逸らされた。あれ?黒子耳赤くない?照れてんの?ちょっと可愛いなーなんて思いながら席を立った。
「どこか行くんですか?」
「教科書使えないから他のクラスの人に借りてくる」
「貸してくれる友達いたんですね」
「悲しいこと言うなよ」
「冗談ですよ」
「まあ昨日知り合ったばっかの人だけど」
冗談には聞こえない冗談に苦笑いしながら教室を出る。目的の教室に行きたいわけだが、"彼"のクラスがわからないのでその辺の子に聞いたらまず女子3人くらいには軽く無視された。まあ想定内。
「あ、ねえねえ」
「ん?なんなのだよ」
たまたま横を通りかかった緑色の頭のでかい男に声をかけると心底ウザそうな顔で振り向かれた。すると私の顔を見て若干目を見開いた。
「お前、昨日の…」
「昨日?あぁ、緑メガネもバスケ部?」
「緑間真太郎だ」
「はいはい」
目の前のメガネを押し上げる男、緑間真太郎は昨日コートで見た覚えがある。シュート率が高かったやつだった気がする。緑メガネと呼ばれたことが気に食わなかったのかわざわざ名前を教えてきた。
「ところで何の用だ」
「赤司君のクラスって知ってる?」
「赤司?それなら2組なのだよ」
「あー、そう。ありがとなのだよ」
「なっ!真似するな!」
緑間にお礼を言って2組へと向かおうと一歩踏み出せば「苗字、」と呼び止められる。まさか名前を知られてるなんて思わなかったから少し驚いた。
「ん?」
「例えマネージャーでも人事を尽くさない奴を俺は認めるつもりはないのだよ」
「え」
私マネージャーじゃねーし。もしかしてバスケ部の中では私マネージャーやることになってんの?昨日虹村サンに無理やり押し付けられた入部届けは家に帰ってゴミ箱に捨てましたよ。また資源の無駄遣いをするなと怒られるかもしれないが本人のやる気がないんだから諦めてほしいものだ。
「あのさ、私マネージャーはやらな…」
「お前がバスケを嫌いだろうが、マネージャーを引き受けるのならば人事を尽くすことだな」
「おい、私の話聞けよ」
じゃあな、と自分の言いたいことだけを言って行ってしまった緑間の背中を見送り私は赤司君の教室へと向かった。
「昨日ジャージありがとね。ちゃんと洗濯したから汚くないよ」
「あぁ、わざわざありがとう苗字さん」
1年2組。緑間のおかげで無事に赤司君にジャージを返すことができた。赤司君は「怪我はもういいのかい?」と尋ねる。私はそれに頷くと「よかった」と笑った。
「それで返しに来たついでに申し訳ないのだけど、算数の教科書を貸してもらえたりはしませんかね?」
「算数…?あぁ、数学か。いいけど忘れたの?」
「あるにはあるんだけど、使い物にならないと言うか…」
曖昧に答えると赤司君は少し待ってて、と言って自分の席へ向かい教科書を持ってきてくれた。
「ほんとごめん。赤司君のクラス算数何時間目?」
「今日はないよ」
「え?じゃあ何で持ってんの?」
さすがに赤司君みたいな人は置き勉とかしなさそう。意外に面倒くさがりだったりするのかな?
「いや、ちょっと予習してただけだよ」
「クソ真面目かよ」
おっといけねえ。思わず本音が出てしまったが、とりあえず教科書はありがたく借りることにする。
「今日は授業ないから急いで返さなくてもいいよ」
「あ、うん。ありがとう落書きして返すね」
「それはやめてくれ」
苦笑いの赤司君にもう一度お礼を言って自分の教室に戻ろうとしたら赤司君に呼び止められた。
「マネージャーの件については考えてくれたかな?」
「ん?あぁ、さっき緑間にも人事がなんちゃら〜言われたけどやらないよ私」
「君は向いてると思うけどね」
「赤司様からそんなことを言われるなんて光栄だわ。やらないけど」
「赤司様…?」
「女子の間ではわりと有名らしいよ。とりあえず私はマネージャーとかやるつもりないから。じゃあ教科書ありがとう」
「今のところはそういうことにしとこうか」
意味深に赤司君がクスッと笑う。それを視界に映しながら私は今度こそその場を後にした。
「え、赤司君もう居ないの?」
「たぶんもう部活いったよ?」
ほぼ睡眠学習で1日を終えてしまって、気がつくと放課後だった。なんで誰も起こしてくれないんだよ。黒子め、隣なんだから起こしてくれたっていいじゃないか。そんなことを思ったのも束の間、赤司君に借りた教科書の存在をすっかり忘れた。そして再び2組にやってきたんだけどそこには見るからに委員長みたいな格好の女の子しかいなかった。聞けば赤司君は掃除当番を終えてすぐに部活に行ったと言う。彼女に頼み赤司君に教科書を返しておいてもらおうかと思ったけど、復習を欠かさない彼のことだからないと困るだろうと思いご親切に体育館に向かうことにした。
「やぁ、苗字さん」
「あ、赤司君。教科書返しにきた〜」
「わざわざすまないね」
「こちらこそありがと。助かった」
どういたしまして、教科書を受け取りそう笑った赤司君の背後をそーっと覗いてみる。
「虹村サンは…いないみたいだね」
「あぁ、監督のところに行ってるよ」
「よかった〜、見つかったらまたマネージャーやれ〜とか言われかねないしね。てか昨日と比べてなんか部員少なくない?」
「あぁ、今日はオフの日だからね。ここにいるのは自主練してるメンバーだよ」
「へー、わざわざ休みなのに練習してるってこと?めんどくさ」
体育館から聞こえるボールの跳ねる音がやけにうるさくて脳に響いた。
「見ていくかい?」
「…いい、帰る」
そう言って来た道を戻ろうとすれば赤司君は小さく笑って「またおいで」と言った。彼がどういうつもりでそう言ったかはわからないが私はなんとなくまた彼のもとへ来てしまうような気がした。というより彼の雰囲気がそう思わせた。
体育館を横切り玄関へと向かう途中、通りかかったもうひとつの体育館からボールの跳ねる音がした。この学校体育館何個あるんだよ、と思いつつ足を止めて覗き込むと予想外の人物がいて思わず声が出た。
「黒子…?」
「!?…苗字さん?」
そこには黒子がいた。ちょうどシュートを外したところで、ガクンとボールがリングに当たって弾かれた。そんな彼に「下手くそ」といえば「どうしてここにいるんですか?」と私に尋ねた。そのままそっくりそのセリフを返したい。
「通りかかっただけ。黒子こそ何でこんなとこでバスケしてんの?」
「僕は自主練を」
「自主練…?え?バスケ部?」
「そうですけど」
言いませんでしたっけ、と何食わぬ顔で答える黒子に私は驚いた。初耳だよ。言っていたとしても私人の話聞かないから覚えてねーよ。嘘だろ…思わずそんな声が出る。見えねー。全然バスケ部っぽくねー。
「一軍の体育館にいなかったってことは二軍か三軍?」
「はい、僕は三軍です。苗字さん一軍のところに行ったんですか?」
「赤司君に教科書返しにきただけ」
「赤司君とお友達だったんですか?」
「いや全然。昨日ちょっと拾われてね…おかげでマネージャーやれとか言われてガングロにはペチャパイとか言われるしさぁ」
「やらないんですかマネージャー?」
「やらない、面倒だし」
そう言うと黒子は「残念です」と言った。私がマネージャーとして入部したところで黒子が得をするわけではないのに、何が残念なんだよ。
立ち話も嫌なので私は体育館の中に入って壁際に座った。黒子は床に転がったボールを拾い黒子は練習を続けた。
「他の人は?なんで黒子しかいないの?」
「さっきまで何人か居たんですけど、君が来る前に帰ってしまいました」
「ふーん、私なら休みに練習なんて絶対しないけどね」
「僕は決してバスケがうまいわけじゃないので、練習してみんなとの差を縮めたくて」
というわりにはさっきから放たれるシュートは外してばかりだ。見ててもどかしい。見かねた私は黒子の元に歩み寄った。
「シュート打つ時に指先に力が入るからボールの飛ぶ方向が鈍って入らないの。もうちょっと力抜いて」
「え?」
「要は運だよ。理屈でシュートしようとしても入るわけないでしょ。こういうのはテキトーに投げるの」
貸して、と黒子にパスを求めると黒子は弱々しく私にボールを投げた。その受け取ったボールを私はリングに投げ込む。ボールは不安定に飛ぶとそのままリングに当たってグルグルと回ったあとに入った。ギリギリじゃん。あぶねー。
「ほらね、こうすんの。わかる?」
「すみません全然わかりません」
「………」
「あの、苗字さんバスケやってたんですか?」
「小学校の頃ちょっとね」
「今は…?」
「辞めた」
床に転がったボールを拾ってドリブルをついていると黒子は不思議そうに首を傾げる。
「…なに?」
「苗字さんって左利きでしたっけ?」
「え、右だよ」
「今どうして左でシュート打ったんですか」
「あー…それは私うまいからどっちでもシュートできるの」
「え?じゃあ、もしかして昨日一軍の人たちが話してたジュニア選抜に選ばれてた女子って苗字さんのことだったんですか?」
「そんな話されてたの?」
「廊下でキャプテンが赤司君とマネージャーにほしいと言ってたのが聞こえたので。あ、あと鼻血でて鼻にティッシュ詰めてたのはまじでウケたとも言ってました」
「虹村こんちくしょー!ていうか正確にはジュニア選抜に選ばれたけど外された女だけどね」
とりあえず私をバカにした虹村サンには後日文句を言ってやろう。私だって好きで鼻血出してたわけじゃない。
「でも、君には才能があるのにどうしてバスケを続けなかったんですか?」
黒子の視線が私を捉えた。まっすぐ見透かすような視線が私は少しだけ嫌だと思った。
「嫌いだから」
「え?」
「バスケ嫌いなの」
私の答えに黒子は少しだけ悲しそうな顔をした。なんであんたが落ち込むの。別に黒子のことを嫌いと言ったわけではないのに。
「自分の好きなものを否定されるのは悲しいです」
「アンタがバスケ好きだろうがそんなの人それぞれじゃん。私は楽しくないからバスケが嫌い。ただそれだけ」
「………」
「黒子はなんのためにバスケやってるか考えたことある?」
そう尋ねたら黒子は少し考える素振りを見せた。そしてその後に返ってきた答えは「わかりません」の一言だった。
「なんのためとか、誰のためとか考えたことはないです。バスケが好きだから、楽しいから、バスケをするんじゃないですか?」
「それは自分に才能がなくてもバスケが楽しいって思える?」
「え、」
「あ…ごめん、嫌なこと言って。今のは八つ当たり。嫌なやつだね、私」
今のは聞かなかったことにして、と言うと黒子は困ったように笑いながら話し始めた。
「確かに僕には才能がありません。そんな自分に落ち込むときだってあります。でも、だからこそ練習するし出来なかったことが出来るようになるのは嬉しいです。だから僕はバスケがつまらないと思ったことはないですよ」
「作文みたいな回答だね」
「バカにしてます?」
「ううん、羨ましいと思っただけ」
「嫌味ですか?」
少しムッとした黒子に笑って「そんなんじゃないよ」と首を横に振る。
「純粋にバスケが楽しめるのは良い事だよ。強くなろう、上手くなろう、一番になりたいって思うのは当然だし。でも人より優れてるってことは時に自分の首を絞めるんだよ」
私はわかってる。才能があればいいというわけではないことを。人より優れているってことはそれだけ人に注目されるし、妬まれたりもする。単に憧れる人もいると思うけど私の場合は違った。練習すればするほど上達する。だけど周りとの差が生まれるばかりで、いつの間にか自分の居場所はなくなってて、とうとうバスケも奪われた。
「どういう意味ですか?」
「人って怖いって話」
「よくわからないです」
黒子の問いに私は「見てて」とだけ言って再びボールを構えた。今度は右手でボールを放つ。だけどそのボールはリングにすら当たらなくてそのまま床へと落ちた。
「…!」
「右腕、使えないの」
「だからさっき左で…」
「腕怪我しちゃってさぁ。医者には生活に支障は出ないけど、バスケはお遊び程度でしか出来ないって言われた」
「………」
「バカバカしいと思わない?」
もっとうまくなりたくてずっと練習してきた。それなのにたったひとつの怪我でもう本気でバスケもできなくなった。壊れた右腕でボールを投げたってゴールにすら届かない。私は何のために必死になって練習してきたんだろう。何のためにバスケをやっていたんだろう。そう思うようになった。
「できないものをいつまでも大事に思ってたって仕方ないでしょ?だから私バスケやめたの」
「後悔してないんですか?」
「…わかんない。でも目標もない、楽しくない、そんなバスケを続けたって虚しいだけじゃん」
すると黒子は私が外したボールを拾いに行った。
「僕は苗字さんの気持ちはわかってあげられないです。才能がありすぎて悩んだこともないし、僕は今こうしてバスケができるからバスケができない君の辛さもすべて理解してあげることは難しい」
「………」
「だけど苗字さんのなかで今でもバスケが諦め切れてないことだけはわかりました」
「…なに、いってんの?」
「本当はやりたいバスケができないから、そんなバスケがつまらなくて、嫌いなんですよね?」
「…………」
図星だった。黒子のくせに生意気なことをいうからちょっと腹が立ってムッとしたら黒子は「君はわかりやすい人ですね」と笑った。うるさい。そして黒子は私の前に立つとそっとボールを私に差し出した。
「苗字さん、もう一度バスケやりませんか?」
「…は?だから私できないって言ってんじゃん。右腕使えないんだよ」
「今度は選手としてじゃなくて、マネージャーとしてです」
「なに言ってんのかな黒子クン」
「さっき、目標のないバスケなんて虚しいって言いましたよね?」
「え、あぁ、言ったけど」
「だったら僕が苗字さんの目標になります。僕はまだ弱いけど、いつか君に認めてもらいたい。そして僕のバスケを見て君にまたバスケを好きになってほしい」
だから、僕のバスケを見ていてください。
なにそのめちゃくちゃな理由。新手のプロポーズ?と笑ってみたものの、そんなめちゃくちゃな言葉は確かに私の心の奥に深く突き刺さった。半端な気持ちじゃない。彼の目は真剣で、私は目が逸らせなかった。口でならなんとでも言える。今まで練習もしないで大口叩くやつなら何人も見てきた。だけど彼は違うかもしれない。これは勘だけど、私は黒子に賭けてみるのも悪くないと思った。
「……いいよ、」
「…!」
「マネージャーやる」
これは、ただの賭けだった。バスケ部のためでも、黒子のためでもない。私が、バスケを好きになるための、私のための、選択だ。
「私に見せてよ、黒子のバスケってやつを」
「はい…っ!」
それは桜が散った頃の話だった。