「何でだよっ!俺はただ戻ってほしかったんだよ、前の苗字に!俺、お前のこと…!」
田中くんの言葉が頭から離れない。彼が何を言おうとしていたのかだいたいは予想できた。聞きたくなかった。そんなわたしを教室から連れ出してくれたのは黄瀬くんで、終始無言だったが図書室に辿り着いた今でもしっかり手は握られていた。
「あ、」
チャイムが鳴った。黄瀬くんの短い言葉に釣られ、時計を見ると五時間目が始まる時間だった。授業、初めてサボっちゃった。隣の黄瀬くんを見ると動く様子がないから、このままここにいるつもりなのだろう。わたしもここにいていいのかな?この空気どうしたらいいんだろう。黄瀬くんはというと、さっきからちらちらとわたしを横目で見て何か言いたそうにしている。声、かけにくいのかな?
「き、黄瀬くん」
「え!あ、はいっ!」
「あ、あの…さっきはありがとう」
「え…?」
「もし、あのまま教室にいたら、ちょっといろいろ耐えられなかったから…」
だからありがとう。そう伝えると黄瀬くんは少しホッとしたような表情で笑った。
「オレ余計なことしたかなって今更思って…あ、でもよかったッス名前っちが怒ってなくて」
「余計なことなんて、そんなこと思ってないよ」
わたしが黄瀬くんに笑いかけるとどこか腑に落ちないようすだった黄瀬くんもいつも通りの笑顔を返してくれた。
「それにしても、授業サボっちゃったッスねー!オレのクラス古典だからラッキーっちゃラッキーッス!」
話題は突然変わってしまって、伸びをする黄瀬くんを思わずまじまじと見てしまう。彼はいつもと変わらない笑顔でまっすぐと前を見ていた。そんなわたしの視線に気づいた黄瀬くんが私に「どうしたんスか?」と首を傾げた。
「聞かないの…?田中くんとのこと」
「え?」
「さっきあんなことあったし…」
「聞かないよ」
ハッキリとそう言って黄瀬くんはわたしの頭にポン、と手を乗せる。黄瀬くんの手大きいなぁ。その心地いい感触に思わず目を細めたら黄瀬くんはクスッと笑った。
「気にならないって言ったら嘘になるけど、名前っちが話してくれるの待ってるから」
だから無理しなくていいよ、とくしゃくしゃと私の頭を撫でる黄瀬くんの手はとても暖かい。そこでわたしは考えた。黄瀬くんはわたしに自分のことをたくさん話してくれる。わたしが黄瀬くんのことを知りたいって言ったから。今日あったこととか、好きなテレビの話とか、お姉ちゃんの話とか、中学のときの話とか他にもたくさん。だったら、わたしはどうだろう。黄瀬くんのことを知りたいと言ったし、わたし自身のことも知ってほしいと言った。だけど肝心な話はできなくて逃げてばっかり。昔の自分を受け入れたくなくて、ずっと目を背けてたけどそんなわたしごと黄瀬くんに受け止めてほしいから。だから、
「黄瀬くん、」
「ん?」
「…わたしの、話聞いて」
「無理してないッスか?」
「うん、黄瀬くんに知ってほしいの、わたしのこと」
そう伝えると黄瀬くんは何か察してくれたようで真剣な表情で「わかったッス」とわたしを見た。
これはわたしが中学生だった時の話。
「苗字さんと仲良くした人は一緒にハブだから」
「ぶりっ子まじでキモい」
「男子の前で可愛い子ぶってんじゃねーよ」
消極的な性格をぶりっ子だと捉えられて男子の気を引いてると勘違いされたわたしは中学に入学してすぐに嫌われ者になっていた。影で悪口を言われたり、放課後に呼び出されてあれこれ言われたり上靴を隠されたりするのはよくあることだった。結局この一年は友達がいないまま終わってしまった。
そして中学二年生になった頃、クラス替えでクラスのメンバーが一気に変わって新しい一年が始まった。どこか期待をしつつ教室に入ると女子たちの視線は一斉にわたしを見た。すでにわたしの話は学年の子たちの耳にすでに入っていたみたいで「あの子でしょ苗字さんって」「全然いい子そうじゃん。声かけてみよーよ」「やめなよ仲良くしたら私たちまでいじめられるよ」などなどヒソヒソと声が聞こえる。新しい友達を作るのは難しそうかも…なんて諦めて自分の席についた時だった。
「おはよ!」
「え…」
前から降ってきた声に顔をあげると女の子が笑顔でわたしの顔を覗き込んでいた。思わず固まってしまったわたしに彼女は再び「おはよう」と言う。
「わたしに言ってるの…?」
「当たり前じゃん。他に誰がいるの?」
少しだけ強くなった彼女の口調にわたしは怖くなってしまった。すると今度は彼女が困惑してしまった。
「ご、ごめん…なさい…!」
「あ、ごめん私の言い方キツかったね、そんな泣きそうな顔しないで」
彼女は再び笑顔になると体を反転させて椅子に跨りわたしと向き合うように座り直した。
「苗字さんでしょ?私前の席の雪平あかね。よろしくね」
こんなの初めてだった。女の子がわたしに話しかけてきてくれたことなんて今までなかったからすごく嬉しかった。雪平あかね。そう名乗った彼女の名前を忘れないようにわたしは何度も頭の中で繰り返した。
「苗字さん下の名前はなんて言うの?」
「…名前」
「じゃあ名前って呼んでいい?」
「いいけど…でもわたしと話して平気なの…?」
「え?なんで?」
「わたしに関わると一緒に仲間外れにされるって…わたし嫌われてるから」
そう言ったら今までにこにこしていた表情が急になくなって真剣な表情で私を見た。
「そんなの関係ないじゃん。私はアンタと話したいから声かけたの。私の行動は私が決めるし、他人に何言われたっていいよ」
だからアンタも堂々としてればいいじゃん。そんな彼女の言葉がじわりと自分の中に沈んでいくのを感じた。嬉しかったんだと思う。そして羨ましかったんだと思う。周りに流されない、強い彼女が。
その日、初めてわたしに友達ができた。
「苗字さん全然いい子だし可愛いのになんで一年のときいじめられてたの?」
「誰だよ虐めてた奴、私らでそいつらシメ上げてやろうか?」
「え!?そ、そこまでしなくていいよ!」
「冗談、冗談!」
「ちょっと、名前はバカ素直なんだからあんまりからかわないでよ!この子なんでもすぐに信じるんだから!」
「あかね名前ちゃんのお母さんみたい」
「うるさい!」
気づけばわたしは普通に女の子の輪に入っていた。男女から好かれるサバサバした女の子だったあかねちゃんはいつもクラスの中心にいて、わたしをその中に引き入れてくれた。そんなおかげでクラスの女の子たちとも普通に仲良くできるようになった。一緒にご飯食べたり、一緒に遊んだりしてわたしの中であかねちゃんは親友と呼べるものになってた。もちろん彼女もわたしを親友だと言ってくれた。あかねちゃんはわたしの親友でもあり、憧れだった。
「彼氏ほしいわー」
「沙奈江それ何回目?」
「もう夏だよ!?ほしいじゃん!彼氏!海!夏祭り!花火大会!ね!?名前ちゃん!?」
「え、わたし!?」
放課後の教室でクラスの仲良いメンバーでお菓子パーティーをしていたら急に沙奈江ちゃんが立ち上がり熱弁を始めた。そしてなぜかわたしに振られる。
「名前ちゃん彼氏作らないのー?こんなに可愛いのに勿体無いじゃん」
「わたし、男の子と話すの苦手だし…」
「あぁ、そう言うのが可愛いんだよ!こういう子が男子は好きなんだよ!私もそんな女の子になりたかったぜちくしょー!」
「沙奈江うるさいんだけど」
「そう言うあかねはどうなの!好きな人とかいないの〜?」
「い、いないよ!」
「は〜ん、さてはいるな!言え!吐け!」
真っ赤な顔のあかねちゃんに沙奈江ちゃんが容赦無く質問攻めをする。わたしと他の子たちはそれを笑って見ていて、とうとう諦めたあかねちゃんが渋々口を割った。
「誰にも言わないでよ…」
「言わない言わない!ほれほれ言っちゃいな!」
「……田中」
その言葉で頭に思い浮かんだのは同じクラスの田中くん。サッカー部でかっこよくて、彼もまたクラスの人気者だった。いつも仲良さそうにあかねちゃんと二人で話しているのを知ってる。そんな二人はお似合いだと思うし、彼女の恋がうまくいってほしいと本気で思ってた。
「花火大会、誘ってみなよ!ほら、最後のでっかいハートの花火、好きな人と見たら結ばれるって言うじゃん」
「でも…断られたらどうすんの」
いつもはサバサバしてて男勝りなところがあるあかねちゃんが今は乙女チックで消極的で、なんだかそれが可愛くて笑っていたら「なに笑ってんの名前!」と怒られてしまった。
「わたし、応援してるね!うまくいくといいね、あかねちゃん!」
「アンタその天使スマイルで何人の男落としてきたのさ。女の私ですら不覚にもときめいてしまったわ」
「え!?」
そんな平和な日常が壊れたのは花火大会3日前の話だった。
「苗字ひとり?あかねは?」
「あ…、田中くん」
放課後、委員会だったあかねちゃんを教室で待っていたわたしの前に現れたのは田中くんだった。いつもはあかねちゃんを通して話したりするけど、元々男の子と話すのが苦手だったわたしはどうしていいかわからず困惑していた。
「あ、あかねちゃん、委員会だから…」
「あぁ、待ってたんだ。グラウンドから苗字が見えて、いつもあかねといるから一人でいるのは珍しいなと思って」
そう言いながら田中くんはわたしの前の席のイスに跨るように座りわたしと向かい合う。田中くんは頬杖をついてわたしが手に持っている本を見た。
「苗字いつも本読んでるよな。好きなの?」
「え…うん、」
「俺は長い文章とか読めねーわ!」
「田中くんはあんまり本を読むイメージがないね」
「だろ?」
「それより田中くんはどうして教室に?部活は?」
「今日は監督休みで自主練だから別に行かなくても問題ないよ」
「でもその格好してるってことは自主練してたんだよね?いいの、戻らなくて?」
田中くんの格好はTシャツとハーフパンツといった部活の服装だった。尋ねると田中くんは少し照れ臭そうに笑って答えた。
「苗字が見えたからここに来た」
え。思わずそんな短い言葉が漏れた。田中くんの顔は少し赤い。でも窓から差す夕日のせいなんかじゃないことはいくら鈍いわたしでもわかった。正直、困る。あかねちゃんは田中くんのことが好きなのだ。わたしはそんな彼女を応援すると決めた。どうしていいかわからなくて、この場の居心地が悪い。最悪だ。わたしは俯いて黙り込む。わたしの悪い癖だ。するとスッと伸びてきた田中くんの手がわたしの手に触れた。ハッとして顔を上げると田中くんはしどろもどろに言葉を繋げる。
「あのさ、今度の花火大会、一緒に行かない?」
「……ごめん、一緒には行けない」
「誰かと行く約束してるの?」
「…花火大会は誰とも行かない」
そう言うと田中くんは「そっか、」と少しだけ残念そうな顔をした。やめて、そんな顔しないで。それじゃあまるで田中くんが私を…
「他の男子と行くのかと思った。正直ちょっと安心したわ」
「……っ」
「あのさ、苗字。俺、お前のこと」
「ご、ごめん!わたし、もう行かなきゃ…!」
これ以上は聞いてはいけない気がしてわたしは慌ててその場から立ち上がる。すると「待って、苗字!」と強く腕を引かれて進もうとした足は逆戻り。気がつけばわたしは田中くんに抱きしめられていた。
「俺、苗字が好きだ」
「……!」
やめて、言わないで。でももう遅い。
「なに、それ…」
彼が言い終わるのと同時に、教室の入り口から聞こえた声にわたしは言葉が出なかった。毎日隣にいた聞き慣れた声にわたしは怖くて振り向けない。頭の中でその人物が誰か、なんて簡単に想像がついていた。頭が真っ白になる。夢だったらいいのに。どこか他人事のようでそうじゃない。そんな中、田中くんの「あかね…?」という声に現実に引き戻される。無意識に反応してしまって振り返るとそこには悲しそうな、苦しそうな、悔しそうな表情を浮かべた彼女がわたしを睨んでいた。
「あかね、ちゃ…ん」
「応援するって言ってたじゃん…」
「そうじゃなくて、」
「嘘つき」
「違うの…!」
「何が違うのよ!アンタ、最低…っ」
「あかねちゃん、待って!」
わたしは田中くんの手を払って泣きながら走っていくあかねちゃんを追いかけた。玄関でようやく立ち止まってくれた彼女は振り返ってわたしにいう。
「友達から好きな人を奪った気持ちはどぉ?」
「違う、わたし…そんなつもりじゃ」
「もういい。なんか疲れたわ」
「え…?」
「私アンタと一緒に居て男子からなんて言われてたか知ってる?"苗字名前の引き立て役"だって。田中だってそう。アンタと仲良くなりたかったからいつも私に話しかけてきてたのよ。だからもう嫌なの」
「…あかねちゃん、」
「名前と友達にならきゃよかった」
その一言で今までの楽しかった思い出も、嬉しかったことも憧れも全部壊れた気がした。わたしたちが一緒にいた時間は一瞬にしてなかったことになった。
「裏切り者」
「ドロボー名前ちゃ〜ん」
またあの頃と一緒だ。あの日からあかねちゃんとは口もろくに聞かなくなって、その話が生徒たちの間で広がってあかねちゃんと仲が良かった女子からは嫌がらせをされることもしょっちゅうだった。日に日にエスカレートしていく嫌がらせに耐えきれなくて学校も休みがちになった。田中くんとはあれ以来まともに顔も合わせられないままわたしは中学を卒業した。海常高校に進学したのは同じ中学から進学する生徒がいなかったからだ。だけど、その生徒の中に田中くんがいたなんて知らなかった。
わたしが高校に入って友達を作ろうとしなかったのはまたあの頃みたいな思いはしたくなかったからだ。失うくらいなら始めからいらない。そう思った。でも黄瀬くんと出会えたことで、わたしの世界はまた大きく変わった。
「ーーってことがあってね、田中くんは責任感じちゃってるみたいであんな感じだし…」
「…それだけじゃないと思うッス」
「え?」
黄瀬くんはわたしを見る。いつもより少し低い声のトーン、どこかイラついたような表情。
「田中くんはまだ名前っちのこと…」
わかってる。田中くんがわたしに抱いてる感情も、これからわたしがどうしなきゃいけないかも。
「わたし田中くんと話してくるね」
「……」
「話して、ちゃんと伝えてくる…わたしの気持ちも」
すると黄瀬くんがわたしの手を握る力をぎゅっと強めた。そういえば、手ずっと繋げぎっぱなしだった。今更ながら恥ずかしくなって「黄瀬くん」と小さな声で呼んでみたけど、どうやら離す気はないらしい。そして少しだけ唇を尖らせてポツリと呟いた。
「ちゃんとオレのとこに帰ってきてね」
なんだかその様子が小さな子どもみたいで思わず笑ってしまう。「今笑うところじゃないッス!」の更に膨れてしまった黄瀬くんに謝れば今度は目を細めて笑う。今日はいろんな黄瀬くんを見れた気がする。
「名前っち」
「ん?」
黄瀬くんの声に顔をあげれば、ふいに黄瀬くんの空いている手がわたしの頭にポン、と乗った。
「辛い過去の話はするのは、きっと勇気がいるッスよね?それなのに話してくれてありがとう」
「…!」
「きっと、今までひとりで辛かったッスよね」
「…っ」
「でも、これからはオレがいるしもうひとりで全部抱え込まなくても大丈夫ッスよ!」
そこには眩しいくらいの黄瀬くんの笑顔があった。わたしはこの笑顔に何度救われているんだろう。ありがとう、なんて何万回言っても足りないくらい。
黄瀬くんはいつだって太陽みたいに暖かい。
この温もりをわたしは手放したくなくて、握っていた手にぎゅっと力を込めた。わたしの「ありがとう」が黄瀬くんに伝わりますように、と。