さようならだなんておかしいわ


「ごめん、悪いけどもう一回言ってくれる?」


放課後の、俺たち二人しかいない教室。全ての始まりはここから。だからここで、今日、全てを終わらせてしまおうと思ったのだ。

その考えが甘かったと知ったのは、目の前のいつも笑みを浮かべている顔から一切の表情が消えたのを見た瞬間だった。さっきまで機嫌の良さそうな笑顔を浮かべていたというのに、今はまるで温度のない目が射抜くように俺のことをただ見ていた。



その表情が余りにも恐ろしくて、背中に冷や汗が伝う。でも、今を逃してしまえば俺は永遠に目の前の男に縛られ続けるだろうことが分かっていた。もう俺は限界だった。


「…別れて、くれ」


蚊の鳴くような声で同じ言葉を繰り返す。俺よりも少しだけ低い位置にある目は、一瞬だって俺から逸れない。重い沈黙が流れる。何故か、外のグラウンドで活動している筈のサッカー部や野球部の声が聞こえない。まるで世界から俺と目の前の男を除いた全てが消えてしまったみたいだ。

「意味が分からない」

沈黙を破ったのはぞっとするぐらいに低い声。俺は目を見開いた。今まで一度だって、俺はこいつからこんな声を聴いたことがない。だってこいつは、外見も中身も丸っきり王子様みたいな奴だったのに。


「古森…?」

「意味が分からない、意味が分からないよ辰喜。いきなり別れたいなんて何でそんなこと言うの?もしかして誰かに言わされてる?…ああそうだよね。辰喜が僕にそんなこと言うわけないもんね」

ぺらぺらと早口で捲くし立てた目の前の男、古森は一度目を伏せた。そして次に顔を上げた時にはいつもの笑顔を浮かべていた。ただし、目だけは冷え切り、俺を射抜いている。

「取り乱しちゃってごめんね。辰喜が別れたいなんて本心から言う筈ないのに。誰かに別れろって脅されたんでしょう?でも大丈夫。何があっても俺は辰喜から離れないし、もうこんなこと無いようにずっと俺が傍にいるから」

俺は古森が何を言っているか分からなかった。そもそも俺と古森が付き合い始めたのだって、古森から脅されたからだ。一緒にいたいだなんて一瞬だって思ったことはない。古森が目を細めて、俺に手を伸ばしてくる。

「いい加減にしろよ…!」

気付いたら乾いた音を立てて、古森の白くて綺麗な手を振り払っていた。睨みつけると、古森は驚いたように目を見開く。

「誰にも脅されてなんかない!別れたいって言うのはおれ自身の意思だ!そもそも、俺はお前となんて付き合いたくなかった…!」

衝動のままに怒鳴りつける。きっとこんなこと、勢いでもなきゃ一生言えなかっただろう。普段、叫んだりしないものだから息が切れてしまい肩でぜえぜえと息をする。古森を見ると、驚いた顔は嘘だったかのように消えて、何の表情もなく俺をじっと見つめていた。気味が悪い。俺がじりっと一歩後退すると、古森は形のいい口を動かした。




「言いたいことは、それだけ?」

奇妙な声だった。抑揚も感情も一切、削げ落としてしまったかのような声。言いたいことなんて有り余るほどある筈だったのに、俺は口を噤む。頭の中で警報がなっていた。古森が一歩、俺に近づいてくる。それを見た瞬間、踵を返して俺の身体は逃げの姿勢を取っていた。

しかし、後ろから腕を引っ張られ、逃げることは叶わず背中から思い切り教室の床に倒れ込んだ。固い床に打ち付けられた身体が悲鳴をあげる。肺がひゅっとよくない音を出した。げほげほと咳き込んでいる俺の身体を跨いで、誰かが見下ろしている。涙に揺れる視線を上げると、古森が無表情で俺を見下ろしていた。余りにも恐ろしいその表情に、俺は思わず息を飲む。

「辰喜、なんで逃げるの」

冷たい言葉が振ってくる。古森は、俺を跨いだままゆっくりとしゃがみ込んだ。そのまま膝を付くと、至近距離で俺を見下ろしてくる。かちかちと何かが鳴っている。それは俺の歯が立てている音だった。寒さに歯が震えるように、俺は恐怖で歯を鳴らしていた。きっと青褪めているだろう俺の顔を、古森はじっと見つめている。

「ねえ、何で辰喜は何も言わないのかな。僕、今すごい怒っているから…謝るなら早くした方がいいよ。ごめんなさいって、全部うそだって。やっぱり脅されてかわいくないこと言ったなら、脅した奴を僕が殺してあげる。だから、ほら」

どこまでも平坦な声だ。今までの古森は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。俺が答えないで居ると、古森は舌打ちをした。綺麗な腕が、俺へと伸びてくる。

「…うぐっ!」

「意味が分からない意味が分からない意味が分からない。なんで辰喜はごめんなさいが言えないのなんでそんなに悪い子なの。…でもねえ、辰喜。僕はそんな辰喜でも愛してるよ。だから、お仕置きしてあげるね。もう、こんなことにならないように、ね?」

俺の首に絡まりつく古森の指が、気道をぎりぎりと締め上げる。言葉と共に強くなっていく腕の力に、俺はいったい何処から間違えてしまったのだろうと考えていた。


「愛してるよ、辰喜。ずっと一緒だから。死んだって、傍にいるから。お別れなんてずっとこないからね」


古森が笑った。綺麗で、どこか壊れたような笑顔だった。なんだ。逃げ道なんて最初から用意などされていなかったんじゃないか。




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