渇いた開き戸の音。
低いが柔らかい、帰宅を告げる声。
その音に気が付いて出迎えに玄関へ向かったのは日暮れも過ぎ、猫の爪の形をした月が現れた頃だった。
『いつもすみませんねェ…』と口少なに、それでも自分を気遣う男を想像すれば、自然と口許は弧を書いてしまう。
「おかえりなさい、イッショ、う?」
さて、ここでなまえの思考は固まってしまった。この男と出会ってこのかた、こんな事態は初めてであった。
「…イッショウ…っ?ど、したの…?」
「…部下に、頂きましてね…はろうぃん、とかで。」
『こちら』にも同じ行事があったのか、と納得したのも一瞬。目線はこの大男の頭上に釘付けにされてしまった。
「それは、カエル…?」
「カエルで間違いは無いと…」
カエルの被り物を男はまとっていた。緑の何やら光沢のある素材で、手触りは良さそうだ。
男が身じろぐ度にその円らな瞳はくりくりと周りを見回していたのだった。
…俗に、これを人は『シュール』と呼ぶ。
「あ、その…えっ…と、」
「どうされたんで…?
「…イッショウが被り物してるの初めて見たから、その、驚いちゃって。」
正直に、目を真ん丸にしていたなまえは実にたどたどしい。男は苦笑を一つ。かしかしと被り物ごと頭を掻いて照れていたのであった。
「こりゃあ、どうも、お騒がせを。」
「すごいサプライズだったねぇ…」
ややあってからユーモアのある部下さんなのね、と彼女はにかみ…くすくすとまろんだ微笑み声を出したのだった。
「かわいいって、思っちゃったの、」
イッショウが、ね、とだんだんと口ごもっているのを感じて男はその小さな両手を、続きを促す様に包んでやる。
「男の人にかわいいって、あんまり言わない方がいいって教えてもらったんだけど…やっぱり、その」
ゴニョゴニョ…と言葉を口の中で転がすなまえに男はこの上なく和んでしまったのである。これも惚れた弱みだ、と幸せそうに微笑むのだった。
そして、
「では、『とりっくおあ、とりーと』」
これが、本題なのだ。男はにこり、と一見含みの無い様な笑顔を見せた。再び驚いたなまえは、再び固まる。
「…お菓子、今無いからちょっと待っててほしいんだけどね、」
「なら悪戯をしましょうか…」
「え。」
お約束。というやつでしょう。
にこりと笑顔を貼り付けて男はひょい、と愛らしいなまえをすっかり抱き込んでしまったのだった。
余談であるが。頭には勿論、くりくりお目々のカエルが今だ控えて揺れている。
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