シクラメンの花は俯き、まるでその心持ちは秘めた情熱を隠しているかの様だ。篝火に似たその艶姿を見つめ、そう呟いたのは今となっては皆目見当つかず。
クルーの一人が珍しがり、嬉々として買ってきた鉢植え。鮮やかな色の花は今日も静かに佇んでいたのであった。光届かぬ深い海の境目を進む潜水艇は花もご機嫌になるほど、順調に航海を続けていたのであった。
「…お願い、ごと?」
「あァ。」
シクラメンを棚の上に乗せたなまえは『言う事を聞く』と言い放った男の顔を振り返り、まじまじと眺めてしまったのであった。彼の顔を覗けばいつも通りの隈、今は猫背気味にベッドに座り、ほら言ってみろと視線だけで彼女の口を動かそうとしていた。
「でも…ロー、プレゼントくれたでしょう?」
青天の霹靂、思ってもいなかった男の台詞になまえはこてんと小首をかしげてしまう。誕生日のパーティーまでしてもらってプレゼントに花まで頂いてしまって、と堪らなく嬉しく、緩い涙腺も合間ってか泣き出してしまったのは記憶に新しい。勿論目の前の男も贈り物をなまえに差し出していたのだが…どうにもこのローという海賊団のキャプテンはそれだけでは気が済まなかったらしい。
「何もプレゼントは一つだけ、なんて決まりは無い。」
決まりがあったところで守らないのがこの男の性分である。クツリと喉を鳴らして、彼女の名前を呼んで手ぐすねを引いていたのであった。
「なまえ、来い。なんでも聞いてやる…。…なァ?」
叶えてもらうのはなまえであるのに、その主導権はずっとこの男のものである。瞳を細めれば香水よりも甘ったるい香りが辺りに撒き散らされて、低い声はゆったりと言葉を吐いてなまえの鼓膜を痺れさせたのだった。
「…ぅ、」
「上出来だ。」
なまえが『これ』に弱い事など逆らえ無い事など承知の上だ。白々しいにも程がある。しかし何を隠そうか、この男ときたらこの蜜月の戯れを大層好いてしまっているのだから全くもって始末に終えない。
「なまえ…ほら、言えよ…。おれはおまえのもの。唇も…小指の爪までみんな…。」
ベッドまでなまえが寄って来れば掛かったとばかりに抱き寄せて耳元で掠れた声を囁いてやる。女殺しとはかく言うものか、深海よりも深い艶の音で動けなくなったなまえをいい事に好き勝手に指を絡めて男は戯れていたのであった。
なけなしの理性で悲鳴を上げるのを堪え、しかし羞恥で悶える彼女は絡まっていく温度を暫し眺めていたのだが…観念してしまったのだろう、一言ポツリと声を漏らし出したのだった。
「ゆび、」
「…ン?」
「指のね、刺青を…触ってもいいデスカ…。」
「…何を今更。」
幾度と無く触れてきた筈であろうに。肌を重ね、行き来を朝を忘れてしまうまでに繰り返したというのに。
子どもの様に瞠目したのは一瞬で理由は?とローは縮こまるなまえの顔を覗き込んだのだった。
「確かに、ローと手を繋いだり…とかはしてるんだけど刺青をじっくり見たり、触ったり、とかはした事無いから。」
『ロー』に一杯いっぱいになっちゃって、中々注意がそっちまで回らなくて、だからあのその、もにょりもにょり。
言い訳地味てきたなまえこそ子どもの様だと、男はからかいたくなってしまう。
「成る程、な。」
ぎしりとスプリングを軋ませて、自由をなまえに返してやる。腕を解いて己の隣に座らせてやるとその甘やかな膝の上に文字の羅列が彫られた手を乗せる。
「…好きにしろ…。」
膝から腹へ。なまえの肌には足元にも及ばないが柔らかい服の感触を辿り、上へと上っていく。膨らみを通り過ぎればおんなの声がなまえから小さく上がり背中が粟立った。それに無視を決め込んでふっくらとした頬にその掌の片方を添えたのだった。
「…ん。…ありがとう、ロー…。」
「あァ、」
己の掌を両手で包んだなまえは宝物の様にそうっとローの片手の温度を確かめる。愛おしいおとこの温もりに心が蕩けて、震える感情を撫で付ける為に瞳を一度閉じた。
開いて、その刺青が見える胸元まで高さを下げればごつごつとした節くれ立ったものが待っている。
「おおきい…」
「おとこ、だからな…、」
「今でも痛む事とか、あるの?」
「いや…無い。」
「感覚は他のとこと一緒?」
「いっしょだ。」
「…ん。」
つう、と彫られた色を小さな指で掠める様に撫で、辿る。愛しさを込めた眼差しと指は蜜よりも艶よりもあだっぽい。無意識に瞳は潤み、血液は駆け足となってなまえの頬を赤色に染めていく。どちらかもわからない程の蕩けた吐息が聞こえる。
なまえがしたい様に男は自由を明け渡す。
「でぃー…いー…、」
舌足らずに文字を読む声にぐらり、と心臓が沸騰していく。文字の声が紡がれる度に沸点を知らない心臓はおとこの体を沸かしていったのだった。
「触らせてくれて、ありがとう。」
「…もういいのか?」
「うん…。」
もう一度、掌を自分の頬に。幸せそうにはにかんだなまえはおとこの掌に擦り寄って心地よさそうに瞼を降ろすのだった。それからやおら動いて柔い唇を掌にゆるゆると押し付けてしまうのだった。
「…だいすき。」
そのたった一言だけで心臓と感情は一緒くたになって爆ぜていく。視界の端で火花が散ってどうしようもなくこの、己のたった一人のおんなが愛しくて狂おしいと叫び喚きたくなる。
喉が震えてしまうのは、箍が焼き切れる合図だ。
「すきだ、なまえ。」
「うれしい…。」
「…なァ、なまえ。」
「なあに?」
「どうせ、ついでだ。他のとこも触ってくれよ…。」
「ぁ…っ、」
期待か、執着か、他の何かか。その全てか。
震えが移ったなまえのたおやかな体に腕を回し、その腕を己の体へと誘ってやる。肌は熱い、なまえの掌も…熱かった。
何もしていないのに吐息が昂ぶってゆく。
それを知るのは、部屋の隅で俯いている赤いシクラメン、だけ。