作文 | ナノ
醒める胎児


「星が見えんな」
仰向いた喉が白く照らされていた。ふたり、端に座る舟のきしみだけが大きく響く夜であった。
「今日は雲があるし、凪いでいるからだろ」
「ふん、雲。そんなものか。しかしこういうのを人間はなんといったかな、そうだ、朧月は良い。わたしは好きだ」
紫紺の空を見たことがないという。口数の多さも同じほど意外だ。曇り硝子にぼんやりと光る形容し難い月の色にミザエルはただ驚いていた。風がなければせっかく出した小舟も進まない。溜め息をまじえると、湖に映った月が美しいので構わないと笑っている。わずかに白い歯がのぞいて、闇にあらがい溢れていた。
「ほうっておけ、どうせ漕げば進むのだろう」
「まあ、勝手にどこぞに行くよりはいいが」
ミザエルは気づいたか、少しむっとして「つまりカイトのことだな」と白々しく言った。どこでそんなくだらない冗談を覚えたのか、あきれるばかりだ。好奇心に満ちている。赤でも青でもない人間世界がそんなにめずらしいか、一歩繰り出せばまさしく糸の切れた凧だというふうな説教をしたのを忘れていないらしかった。
「おまえだって今は人間だ、それに昔も」
「月の色などとっくにちがうかもしれない」
「ばかな」
「また。良くないぞカイト、おまえ昔の月を見たことないだろう」
屁理屈をすんなり通す口調に、むしろ哲学ではと思う。どうも似合うのは、やはり未だミザエルが別の世界の存在であると認識しているからだろう。カイトはそういう自分が許せなかった。元来、真面目すぎるところがある。今も昔も、何もちがわぬ。ミザエルだって。そう目を凝らし見極めたミザエルの横顔がためらう月の光を浴びて陰影を濃くしている。それがあまりに自然な姿なので、このまま月光と闇とに離れ水面に溶けていくのではと、おそろしくなり目を落とす。だが木でできた舟はただ、ふたりぶんの確かな重みに揺らいでいるのであった。
「可能性を否定するのはいかんな……と言いたいが、わたしが言えることではなかったか」
ミザエルは微笑んだ。以前には考えられなかった複雑で繊細な微笑みである。気高きものを妨げる、自嘲ということを覚えてしまった。それはミザエルが純粋から遠ざかったことを意味しており、朧月を愛するようになったのはそれからだろうか。優柔の穏やかさ。いざよい。カイトにはグレーを許容できなかったその気持ちが嫌というほど分かる。純粋とは何も寄せつけず、文字通り孤独だ。ふたりはすでに孤独ではなかった。それなのに舟の両端にそれぞれ、ひどくもどかしくなる。ミザエルが腰を浮かした。
「暗い顔だ」
「ミザエル」
「いいだろ」
「待て、舟が、わっ」
片側に重心をあつめた舟はもろく傾いて、どぼんという面白くない音でふたりをあっけなく濡らした。一瞬見えた水中は、月光に栄える碧く澄みきった石窟都市を作っていた。さかさまの舟と、数えるばかりの魚たちが目覚めたのが見える……そして金の長い髪がゆらめきながら昇ってゆくのも……傾城とはよく言ったものだ。
「大丈夫か……すこし、考えれば分かることだろう! 着替えはないぞ」
「ふふ、細かいな」
水が冷たくなかったのだけがさいわいだ。噎せながら戒めると、当のミザエルはくつくつ笑っていた。遊んでいるつもりなのか。カイトはいよいようんざりしかけたが、すっかり濡れた長い髪をゆるくかき上げる手に目が行く。ぐっしょりと雫が滴る手袋もミザエルは外さない。色を濃くしたそれは鎧のように見えて、重苦しかった。
「止せよ」
「何?」
「こんな手袋、」
「あ」
左腕をつかまえるも濡れて密着した手袋はうまく外れず、かわりにミザエルがぐいと引き寄せられる。足がつくかつかないかの水深でそのからだはとろりと躍る。一歩遅れて、分かれた水がゆるゆる元の姿に戻ってゆく。たがいの吐息が分かる。カイトはしばらく手をとったまま黙っていたが、「近いよ」とためらいがちな囁きに、ぼんやりしながらも離れた。ミザエルはたった今の言葉はけっして拒絶ではないというふうに、空いた右手でおずおずとカイトの胸に触れていた。そのくちびるには月光色の髪がはりついている。頬にかかるうっとりした吐息の甘さ、刹那に触れた背の曲線が離れない。
「手を」
「うん」
ゆっくりと指を撫でる。羽根を模した手袋を丁寧に指先から脱がしてゆく。殻を剥がすようだとカイトは思う。これほど近づいたことはなかったのだ。たったこれだけでも、悪いことをしている気になる。薬指に触れてなんとなく、指輪を嵌める儀式を思いだす。徐々にその下の白い薄手のブラウスがあらわになって、濡れた布地に透ける肌色がどこか後ろめたかった。
左の手袋を外し終えるころ、「おまえは欲深いな」とミザエルが母のように言った。カイトは何も言わなかった。長い指が、爪先までぴんと澄ましているのをただ眺めていた。
「わたしを暴きたいのだな」
「知りたいだけさ」
「朧月では飽き足らないというわけだ」
赦すような笑みであった。誰を赦すかは分からない。暗い顔だ、というのは、ミザエルのほうだった。ほんとうは苦しいのだろう、いろんなことがありすぎた。少なくとも、純粋であろうともがいていた。
「おまえは気高い」
カイトがぽつりと言うと、あたりまえだ、と返してミザエルは俯いた。握って隠した扇の指も誇り高かった。反射光で尊ばれるのではない。ミザエル、おまえそのものが。
「わたしには、月の光が強すぎるだけなのだ、今」
「いずれまた晴れた夜に出られる」
抱きすくめると、銀の光で冷えている。片側だけ剥き出しにされた指先が、カイトの腕をひしと掴む。くちびるに触れるとき、はりついた髪をそっと寄せると恥じらうように身をよじった。確かに揺蕩う肉体を感じることができる。ミザエルはそして、この恍惚とした水中で生まれ変わってゆくのである。





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