作文 | ナノ
羽ばたき


彼のまえで、ミザエルはただの少年であった。制服のままローファーをひっかけて忙しく出てゆくのを戸口で見送るたび、天城カイトという人間の、わたしには見えぬ部分をそこから感じとってもいた。
ときおり、われわれは人のルールを忘れがちになる。わたしも、ミザエルも、同じ歳の子どもが十分に理解して言葉にすら出さぬラインに気づかないことがしばしばあった。社会常識ともいうし、モラリティともいう。そういう部分でカイトは穏やかであったし、熱心でもあったようだが、ここ数日は違っていた。制服を着替える余裕ができたことは、けっしてよいものではない。
「怒らせてしまったらしい」
たいして気に病まぬふうを装ったふるまいは、理解の追いつかないゆえである。案の定、なぜ、と訊いても首を振った。そんなとき触れてくる手には力がない。一方でカイトとミザエルは手をつないだこともないという。二人のあいだは、他者に比べて言葉が少ないように思われた。カイトがそもそも饒舌でないことは知っているし、ミザエルにも、山といえば川、つうといえばかあ、という感覚を人に押しつける偏ったところがある。本来ならばうまくいかないものを互いの感覚を何となく察知しあうあたりで均衡を保っていたふうなのだが、今度ばかりはそうはいかない。
「ドルベの話をしていて」
「わたし?」
「そうなんだ、もうさっぱりわからない」
ミザエルは頭を抱えた。それはわたしのすることだ。関わっていようとは思いもだにしない。壁掛けの時計が規則正しい音を立てている。きちんとしていたつもりだった、わたしたちも。テーブルの上で項垂れたミザエルの五本の指は細く長い。なめらかな甲をしている。不安になると、手で触れあう癖がある。ミザエルの指がわたしのと絡む。
「ときどきわたしたち、夜いっしょに眠るだろう、それのどこが気に障るのかな」
わたしはこれには参ってしまった。なんの気もなくしていたことが、カイトとミザエルとの関係に、ひょっとしたら社会全体にも申し訳の立たないことだったかもしれないのである。たしかにわたしたちは、触れあいたがるという習性めいたものが導くままに、不安な日はあたりまえのように手を繋いで眠るのだった。子どもじみていると思われたろうか、しかしそんなことで気を悪くする男か? 反対の手で額をおさえているとミザエルは絡めた指に力をこめた。
「すこしカイトと話をしたいのだが、いいかな」
「かまわないが、おまえが責められることは」
「いや、むしろきみたちの仲を取り持ちたいと思っていたのにすまない」
息をついてゆるやかに指をほどけばひどく寒々とした。カイトがほんとうにわれわれの物悲しい行為を訳なく疎んでいるとしたら、きっと、ミザエルの抱く虚しさを知っていてもらいたいと思った。楕円の爪が珊瑚の色に光っていた。それに照らされるミザエルの表情をカイト、きみは知っているのか。たったひとり心を許したきみの一挙手一投足のために冴えざえとする、その目の深い青の階調を覗きこんだことが?

厳しいまなざしをする男だ。けっして獣の荒々しい強欲ではなく、静かな月光の沈むうつくしい瞳であった。細い体躯を隠すコートが見るに懐かしかった。ブーツをにじることもなく、わたしをただ見つめる強さである。
「ミザエルのことだ」
「なにかと思えば」
「あれで落ちこんでいる、きみが気分を悪くした理由が、わからなくて」
冷やかな眼光でわたしを見定めるようにした。賢くあって、みずからの心のうちは語らずにわたしから聞き出すことだけを望んでいた。軽んじる言葉のわりに、足もとはぴたりとも動かない。日ごろの話はすべて、ミザエルの杞憂だろう、彼は水底のやさしさがあるひとだ。
「共寝をするのは、よくないことなのだろうか」
善い人間だと信じたわたしは単刀直入に切り出した。カイトは少しだまっていたが、目をそらして「悪いことではないが」とめずらしく曖昧に次をうながす。ミザエルは彼を怒らせたと言ったが、そうではなかろう。このひとも、心をあらわすことができずに抑えこむばかりである。それもまた苦しいのだと、思った。
わたしは、われわれが不安なとき手を握りあうこと、それは夜もおなじだということ、手を繋ぐだけで、だれに対する悪意もなかったことを正直に話した。カイトはやはり、だまって聞いていた。その厳格なまなざしは自己へ向いているような気がした。失った公平さを取り戻そうと、握った拳が堅固な意志をあらわしていた。
「ミザエルは」
やがて凛と声がした。陰の落ちる色の抜けた肌と灰がかった碧眼が、眉根を寄せた表情にアンニュイを漂わせている。
「不安など、おれにはひと言も言わん」
吐き捨てるようであった。はかりにかけて、ようやく彼の矜持、ミザエルが愛するその魂が許した言葉を、その底に隠された意味とともに身に沁む思いで聴いた。わたしがなにげなく絡めていた心の具現をカイトはミザエルに狂おしく求めていたのだろう。そのシンパシーを、過ごした時の密度のためにたやすく奪ってしまったことが、恥ずかしかった。触れあったことのない二人は、互いの前で、頑なな自尊心を保つのに必死だった。
「きみとのことを、よく話してくれる」
「それが不安か?」
「つまり、きみが与えてくれる、ありあまる幸福に対しての戸惑いだ……だがミザエルは変わりたがっている」
カイトは何か言おうとして口をつぐんだ。彼もまたおのれをひどく恥じている。自責の表情を、いますぐにでも止してほしかった。独占欲は、だれにでもある普遍の欲だ。カイトとて例外ではない……それでもきみはミザエルにとって文字通りの光なのだ。かたく握る手を、どうか、あのひとの前ではほどいてくれないか。そうすればきっと。
「わかりあえるはずだ、ミザエルと」
「それはおれたちが決める、役割以上のことに首を突っこむな」
「わたしの役割とは?」
「……これからも、奴の支えに」
真摯に射抜くまなざしは静まっていた。わずか微笑んだように見えた。言い終えると彼はあっさり踵をかえす。このひとは聡明だ、ミザエル、きみはこんなにも善いひとにこんなにも想われている。彼はやはりきみのもうひとつの誇りなのだ。
「きみこそ、」
思わず追いかけたわたしの声に「わざわざ要らん言葉だ」とだけ、振り向かぬ者と改めて知る。言葉少なでも、傲慢の仮面をかぶるあたたかさが全て物語っていた。彼こそほんとうだ。今度会ったとき、彼はきっとミザエルの瞳を覗きこみ、みずからの双眸の底と共通する深みを見いだすのだろう。
そしてわたしは次の瞬間に心から安堵した。遠ざかる背のひとが、ゆっくりと、隠していた指先を翅のごとくのばすのを見たのである。




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