作文 | ナノ
蒼白き梏桎


扉の向こうでは背のない椅子につつましく座って、窓外をながめていた。口をひらかねば奥ゆかしく、聡明をきわめ揃えた両足の爪先が曲線をえがいた。傾きだす陽が肌に溶け込みだして、吸収を待つ光が表面を濡らしかがやいている。長い髪は自由に、しかし秩序正しく背中に流れ、これもまた陽光の色と境が溶け合って、果てしなく続くと思われるほどである。
「いいか」
声に振り向けば翳り、遅れて夕陽とからみあう黄金の髪がほどけて揺れた。おれの手のうちに仕舞い込まれた釣り合わぬ道具が、アンニュイを忘れるひとつのすべであった。ミザエルは横に立ったおれをじっと見上げていたが、やがて、すいと前を向くと肩にこぼれ出した錦糸をふたたび背中に流した。ミザエルの座る椅子のうしろには、もうひとつの椅子が不格好に置かれている。たったこれだけの儀式のために、構図のバランスをくずしてまで、おれのわがままで置きっぱなしにしてあるのだった。おれは手のうちにある目の細かい象牙の櫛をあらわにした。髪を梳くという、たった、これだけの、儀式。そのためにミザエルはここに座っておれを待ち、終われば帰ってゆく。

迷えばいつもミザエルを呼ぶ。癖のないまっすぐな髪を梳いていると、わだかまりもなくなる気がした。「引っ掛かりがない」から、と言ったら冗談めいているが、ほんとうのことだ。象牙の睡たげな白も良かった。ミザエルがおれの肌の色だといって気に入っていたから、はじめからずっと使っている。おれの肌。この手で梳くこともできるだろうに、それはしなかった。指のあいだからこぼれ落ちてゆく重たさが不安にさせる。落ち着きたくてしていることだから、道具を介するくらいがちょうどいい。象牙はだれの手にも馴染みあたたかいのに、おれの手はいつまでも、かなしいほど冷たくて傲慢だ。うすく痩せ、かわいたこの手が、好きではなかった。
なにを悩むのか、おれも言わなければミザエルも訊かなかった。わかりあっているようで、おれ自身がその正体に気づけぬままでいた。じっさい、為すことすべてが気怠かった。この行為のあいだにも、拭いきれぬアンニュイが侵食しつつあることを薄々感じていた。繻子のきらめきを梳きながら、なだらかな肩に目が行く。……ごっこ遊びの儀式のあいだ、ミザエルはなにを考えているのだろう。目線のさきは、ここからではわからぬ。だまっていることが多かった。口をひらかねば奥ゆかしい、しかし、生きていないようでもある。あれほどよく喋ったやつが、見た目ばかりの人形ではあるまいに……人形、では、あるまい……なぜなにも言わない?
(つきあってくれるか、単なる昔話にも)
(今度こそ人のよろこびを知りたいと)
(カイト、わたしは)
いままでの望みを……息を呑んで、つい手が止まった。おれが奪ったのか。意志あるものよ、供物にされ、嬲られる辱めをどうして受けとめる……どんな気分なんだ、蹂躙され終われば捨てられる、おれの人形になって? 四角い部屋で、外界を眺めることも良しとせず、このとき、閉じこめていた。時が過ぎれば、突き放した。気高いミザエルがいつも、文句ひとつなくこの部屋へ来たというのに、それでもおれたちは触れあわない。おれが許さなかった。よろこびを否定して、せっかく掴み得た生も蓋を開けないまま。
ちがう、求めていた。さっきおれを見つめた表情を、もっと見てやればよかったのに、人と人とがいかに対等になるべきか、いつのまにか、おれのほうが忘れてしまって、思い出せないのだ。おまえはどんな顔をしていた? ここへ来た理由はおまえがおれを。おれがおまえを。待ってくれ、ちがうんだ、ミザエル、おまえはたしかに、たしかに、おれにとって、すべてがうつくしかったんだ……それゆえ、それゆえに。
「……カイト」
「見ないでくれ、」
落とした櫛は椅子の下に隠れて消えてしまった。これは、堅実でもなければ、冷徹でもなく、ただの臆病であった。なにひとつ動かぬまま、ミザエルを言いなりにさせて、本能的に満たされたつもりになっていたのか? 望んだのはこんな結末ではない。うかがえぬミザエルの、おそらくは、部屋じゅうにあふれる光から唯一、見放された双眸……おれがけっして見ることのかなわない、本物の表情……顔をおおった。傲慢な冷やかさが、あきらめの象徴が、頬を包んでいる。なんて嫌な温度だ、そうだ、だって、こんな冷たくかわききった手でおまえを……なぜこのからだは、心を映してくれないのだろう……
おれたちは向きあえなかった。今も。背のない椅子の不穏。これならおまえの背をうんざりするほど抱きしめられるのに、おれには、ただ、身を預けることのできぬ宙ぶらりの怯えしか見えないのだ。ミザエルは言われたとおりきっと振り向かない。声をうしなって、会いに来るための脚だけが残される、人魚のように。
おれが標本台に留めた星の子ども。かがやきを、殺してしまった。空には紫紺がながれはじめて、恐れのままに、光の髪は暗く、重たくなってゆく。






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